まぜまぜダーリン

 柊子が顔を上げた時には、すでにイナクタプトはその男の腕をねじりあげていた。
「あ、ああああ」
 情けない呻き声が男の口から漏れる。それでも、イナクタプトが力を緩める気配はない。
「いたいいたいいたい、折れるううううう」
「イ、イナクタプト……」
 男の悲鳴を聞いた柊子の顔が青ざめた。イナクタプトの平然とした表情とは好対照だ。
「我が主に手をかける。万死に値する罪だ」
 みしり、と骨の軋んだ音が聞こえた気がした。
「だめぇ!」
 柊子が叫ぶ。それでも力を緩めようとはしないイナクタプトの腕に、柊子は抱きついた。
「ある……」
「だめだめ、だめだよ!」
 必死に腕を男からどけようとする柊子に、イナクタプトは困惑した。外そうと懸命になる柊子の力は、弱い。それでも、イナクタプトはゆっくりと腕から力を抜いていった。
 拘束から逃れた男が膝から崩れ落ちる。その背に向け、イナクタプトは冷徹に言い放った。
「行け」
「ひ、ひへへ」
 奇妙な笑いを浮かべた男が走り去る。
 イナクタプトは、まだ自分の腕にしがみついたままの柊子を見た。
「主」
 もう行きました、と言われた柊子が、ぺたりとその場に座り込む。
「主!?」
 まさかどこか怪我でもしたのかと、イナクタプトが慌ててかがむ。ぽろぽろと、柊子の目から涙が零れ出た。
「……しゅうこ」
 ぐす、と柊子が鼻をすすりあげる。
「帯剣を許可いただければ、すぐに首を刎ねましたのに」
「なんで……」
 柊子は唇を噛み締めた。それでも、どうしてだか涙が止まらない。
「そーいうのは、やっちゃだめなの」
 嗚咽交じりに言いながら、イナクタプトの胸を叩く。イナクタプトが反省したようにうなだれた。
「簡単に誰かを傷つけちゃ、だめだよ……!」
 うわあん、と一声上げて、柊子はイナクタプトに抱きついた。
「こわかったよう」
 驚きに満ちたイナクタプトの瞳が瞬く。
 自分の腕の中で小さく震える主を抱きとめようとしたその手は、しかし、柊子の背に触れることはなかった。


 帰宅した柊子とイナクタプトを迎えた源次郎は、玄関で奇妙な顔をした。
 ぐすぐすと鼻をすすりながら、赤い目をした柊子の隣にいるイナクタプト。その手が、しっかりと繋がれているのだ。
「なんだぁ? どうした」
「私が未熟でした」
 イナクタプトが告げ、片手で米を渡す。受け取った源次郎は、涙の余韻が残る柊子の頭をぽんと叩いた。
「目ぇ真っ赤だぞ、柊子。風呂に入っちまいな」
 素直に頷いた柊子が風呂場へと向かう。
 その背を見送った源次郎は、改めてイナクタプトに向き直った。

 外の冷気とは違い、浴室には暖かな湯気が満ちていた。
 それだけで柊子はほっと息をつくことができた。
 シャワーを頭からかぶる。冷気ごと嫌な感情が洗い流されていくようだった。
 自分に刃が向けられたこと。
 イナクタプトが人を傷つけようとしたこと。
 その、どちらもイヤだった。
 初対面時にわかっていたことだけれど、イナクタプトと柊子の価値観には、大きな隔たりがあった。
 けれど、イナクタプトは自分を守ってくれたのだ。
 柊子が落ち着くまで、その胸で泣かせてくれた。
 柊子がイナクタプトの手を離さなくても、そのままにさせてくれた。
 ゆっくりと、同じペースで隣を歩いて家まで帰った。
 そのことを思い出した瞬間、柊子の顔にさっと朱が走った。
「ややや、やだ!」
 なんだか、それではまるで――
 慌てた柊子は、湯船の蓋をとった。とにかく、先にあたたまってしまおう。
 かきまぜ棒を手に、湯を混ぜる。
 瞬間、湯船が光り輝いた。
「え」
 嘘だろう、と柊子が我が目を疑う。その間にもどんどん光は湯船に満ち、ついには溢れ、浴室全体を包み始めていた。
 壁に張り付いた柊子の前に、魔方陣が現れる。
 その上に座り込む、猫背の男は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「え、えへへへ。こんにちは」
 先ほどの変態。
 そう理解した瞬間、柊子は絶叫した。
「いやああああああ!」


 イナクタプトは言い忘れていた。
 召喚の剣士が倒した相手は、その後召喚の対象となることを―――


「しゅうこ!」
 主の悲鳴に、イナクタプトが浴室に駆け込む。
「いやあ、入ってこないで!」
 ざばりとその顔に湯がかけられた。
「しゅ、しゅうこちゃんかあ。かかか、かわいい名前だなあああ」
「あんたも出てってよ!」
 変態の顔面に洗面器が炸裂する。
「え、えへへごめんね、また呼んでね」
 噴き出した鼻血をすすり嬉しそうな顔をした変態は、イナクタプトの射るような視線を受けて、こそこそと浴室を出て行った。この界隈に住んでいるので、勝手に自宅まで帰れるようだ。
「主……」
 肩で息をしていた柊子が、拳を固める。
「もうやだ、こんな生活――!」
 その日、中川家から何度目かの柊子の絶叫が響き渡った。「今までの中で一番悲痛だったわね」とは、ご近所の里中さんの証言である。


【召喚2:隣の変態さん・END】
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