まぜまぜダーリン

 人間は普段暮らしている時、その潜在能力の半分も使っていないという。
 こういう時、柊子はしみじみそれを実感する。
 なんてみんな逃げ足が速いのだろう。文明の中置き去りにされたと言われている本能だって捨てたものではない。
 そして、どうして私はこうも鈍感なのだろう――。
 足が凍りついたように動かなくなって、人混みに紛れて逃げ損ねた。
 先ほどまで人で溢れていた繁華街は、喧騒の余韻も見せなかった。建物に逃げ込んだ人々は、きっちりと戸締りをしている。
 ここにいるのは、柊子達とお年頃のライオン・ロメオくんだけなのだ。
「柊子、どうしますか」
 イナクタプトが聞いた。
「どうするって……」
 柊子がたじろぐ。ロメオくんは、遠巻きに柊子達をじっと見ていた。こちらが動けば、それを契機に襲ってきそうな気配だ。
「あちらさんはヤル気満々じゃろうて」
 影虎が唇を舐めた。
「だから刀を取るなっちゅーたに」
 仕方ないのうと呟きながら、影虎は傍にあったステンレス製の物干し竿を手にした。
「ちょっとそれ売り物!」
 柊子が咎める。
「さすがに素手は無理じゃ」
 影虎が物干し竿を軽く担ぐ。肩をとんとんと叩くと、柊子達の前に歩み出た。柊子が不安げにその後姿を見つめる。震えを止めるかのように柊子の肩に手を置いて、イナクタプトは影虎に告げた。
「影虎、生け捕れ。できる限り無傷でな」
「承知!」
 影虎の瞳が光る。射すくめられたように、ロメオくんが一瞬引いた。その隙を見逃さずに、影虎が距離を詰める。
「あっ」
 柊子が息を呑む。
「大丈夫です。影虎なら」
 イナクタプトの言葉通り、影虎は苦戦の色も見せなかった。牙を剥き、爪を光らせ飛び掛るロメオくんの更に上を飛ぶ。ライオンの体、その顎先に物干し竿を引っ掛けると、くるりと体を反転させた。仰向けになったまま、ロメオくんが地面に叩きつけられる。その咽元に影虎が物干し竿を突きつけた。
「獣でもわかるじゃろう、お前さんの負けじゃ」
 ロメオくんが唸る。体をよじり起き上がろうとするその姿に、影虎は嫌悪感を滲ませた。
「わからんか」
 普段の明るさのかけらもない、冷え切った声だった。瞳が暗い光を宿す。
 その瞳を見たロメオくんは、びくりと痙攣した。よじりかけていた体を、不自然な動きのまま止める。そのまま、ロメオくんは動こうとはしなかった。

 動物園のスタッフと地元猟友会のメンバーで構成された捕獲チームが到着したのは、それから十分後のことだった。
「麻酔? いらんいらん。自分で乗るけ。な?」
 影虎に言われたロメオくんが、とぼとぼとトラックに用意された檻に乗り込む。その様を、皆信じられない面持ちで見つめていた。
「あ、あなたは一体……」
「ん? わしか? わしは――」
「なんでもありません! ただの通りすがりです!」
 慌てた柊子が影虎の腕を掴む。
「な、なんじゃ」
「なんじゃじゃないでしょ! マスコミの取材に答えてどーすんの! 帰るよ!」
 これ以上厄介ごとが増えてはたまらない。柊子は全力で影虎を引っ張った。
「しょうがないのう」
 頬をかいた影虎が、ひょいと柊子を抱き上げる。
「ちょっ」
「帰るそうじゃ、行くで」
 イナクタプトが無言で頷く。二人が走り去った後は、小さな竜巻が起きたという。


 遊びに出かけたはずなのに、この途方もない疲労感はなんだろう。
 柊子は思わずため息をついた。
 誰も怪我をしなかったのは良かった。とてもいいことだと思う。けれど。
 心なしかイナクタプト達が来てからトラブル続きのような気がする。
「でも、いないと全部大変なことになってたかも」
 そう思えば、感謝すべきなのかもしれない。バスタオルを抱えたまま、柊子は考えた。
「うーん」
 考えても埒があかない。
 とにかく、お風呂にでも入ってさっぱりしてしまおう。
「おとーさん、あたしお風呂入ってくるね!」
 居間にいた源次郎に声をかける。と、イナクタプトが立ち上がった。
「柊子」
「なに?」
 イナクタプトがいつになく真剣な瞳で柊子を見つめた。
「……気をつけて」
「うん……?」
 柊子は曖昧に返事をした。
 一体何に気をつけろというのだろう。
「変なイナクタプト」
 浴室に入り、ふたをどかす。かきまぜ棒で湯船を掻き混ぜかけて、柊子は唐突に思い出した。
 
 召喚の剣士が倒した相手は、その後召喚の対象となる――

 ロメオくんを仕留めたのは影虎だ。その影虎は、居間にいる。
「え、まさか」
 腕を止めた時には、もう遅かった。湯船が光りだしている。
「ううううう、うそ!」
 召喚陣の上にうっすらと形作られるシルエットは、人のものではない。
 獣の形をしている。柊子の顔から見る間に血の気が引いていった。
「ラ、ライオン……!?」
 柊子は一瞬腰を抜かしかけた。
 あわあわとうろたえている間に、足が形作られる。光のベールを脱ぐように、金色の毛並みが現れてきた。
「きゃああ!」
 次の瞬間、柊子はかきまぜ棒を手に、湯船の中をかきまぜた。
 涙ぐみながら、先ほどとは逆の軌道を描く。
 途端に、光は湯船の中に収束していった。呼び出されかけたロメオくんが残念そうな顔をしながら、湯船に吸い込まれていく。
「ご、ごめん! またね!」
 なぜか柊子は謝った。
「今度、動物園行くから!」
 承知したというようにロメオくんが咽を鳴らす。その余韻が、光の失せた浴室内に残っていた。
 タイル張りの床にぺたんと座り込んだ柊子は、かきまぜ棒を手に呆然と湯船を見つめていた。心臓がはっきりと鼓動を打っている。それが夢ではないと告げていた。確かに、ロメオくんを召喚し、還したのだ。
 還した。
 瞬間、影虎とイナクタプトの姿が脳裏をよぎる。
 還れるのだ、本当に――
 柊子の喉がこくりと鳴る。
 湯船には、なにごともなかったかのようにお湯が揺らめいていた。


【召喚4:ロメオくん(四さい)・END】
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