まぜまぜダーリン

 その女は常に戦っている。
 綻びかけた世界のために。
 その全てをかけて。


「おかーさんが……」
 信じられないような面持ちで、柊子は呟いた。
 どこかにいるんだろうと思っていた母。いつか逢って話すことがあるんだろうかと夢想したこともある。
 けれど。
 想像の中、柊子の母親がいるのは柊子と同じこの世界に限られていた。
 考えたこともなかった。

 柊子の母は、今、異世界にいるのだ――

「それって……!」
 ベッドから勢い良く立ち上がった柊子がバランスを崩す。小さな悲鳴をあげて転びかける主を、イナクタプトが抱きとめた。
「きゃあ!」
「柊子。お怪我は?」
 受け止めながら一緒に転んだにも関わらず、イナクタプトは息一つ乱していない。絹糸のような銀髪が扇状に広がっている。分厚い胸板の感触に、柊子は飛び起きた。
「ご、ごめん!」
「柊子! やっぱ一緒に呑まねーか?」
 年頃の娘への配慮はどこへやら、源次郎が柊子の部屋の扉を豪快に開け放った。酒瓶を上げ、火照った顔に満面の笑みを浮かべながら、動きを止める。
「……あ」
 柊子の唇から声が漏れた。
 寝転んだイナクタプトの上に座り込んでいる柊子。
 これではまるで自分が押し倒したようだ。
 途端にイナクタプトの胸に置いた手から鼓動が伝わって、柊子の顔に朱がさした。
「ん?」
 硬直した源次郎の背後から影虎が覗き込む。
 ほうほうと頷きながら二人の姿をしげしげと眺め、にっと笑うと好色に告げた。
「邪魔したな。ほいじゃ」
 パタン、と影虎が閉めたとは思えないほど静かに扉が閉められる。それを呆然と見ながら、柊子はぱくぱくと口を開いた。
「ち、ちが……」
「柊子?」
 事態を呑みこめていないイナクタプトが不思議そうな顔をする。
「ちがーう!!」
 柊子の絶叫があたりに響き渡った。「なんだか恋の香りがするわね」とはご近所の里中さんの証言である。


召喚6:「悲鳴鑑定士・里中」


 里中さんは専業主婦である。この道二十二年のベテランだ。
 体型はやや樽型。髪型は国民的人気アニメの主婦に似ている。幼少より「このアニメは私がモデルなのよ」と吹き込まれた柊子は、長らくそれを信じていたぐらいだ。
 息子さんがひとり。柊子より五つぐらい年上だったと記憶している。柊子が小さな頃はよく遊んでもらったが、今では時折挨拶する程度の間柄だ。
 なんていう里中さんに関するデータが、瞬時に柊子の脳裏をよぎった。
「最近なんだかにぎやかねぇ」
 源次郎御用達の肉じゃがを届けに来た里中さんは、にこにこと嬉しそうに柊子に告げた。
「はぁ……」
 昨日のことを考えると、生返事しか出てこない。
 いっそ、相談してしまおうか。
 柊子は考えた。
 小さな頃から、よく面倒を見てくれた。源次郎に言えない悩みを打ち明けたこともある。母親代わり、と言って差し支えない人だ。
 湯船を混ぜたら居候が増えたんです――
 咽元まで出かかった言葉を飲み込む。なんて信憑性のない発言だろう。実際、目の当たりにしていなかったら柊子だって信じまい。
「でも、柊子ちゃん楽しそうでよかったわ」
 人の良さそうな笑顔で言われ、つられて柊子も微笑んだ。
「そう見えます?」
「ええ」
「じゃあ、きっと、いいことなんだ」
 柊子が言うと、里中さんは嬉しそうに目を細めた。
「じゃ、おばさんはこれで。お父さんによろしく言っておいてね。影にいるおにいさんも、元気で」
 玄関からの死角、壁際で待機していたイナクタプトに聞こえるよう告げて、里中さんはほどよく肥えた体を揺すりながら軽やかなステップで帰って行った。サンダルが軽快なリズムを刻む。
「あれは、何者ですか?」
 その姿を見送って、途切れた頃にイナクタプトが訊ねた。額に冷や汗が浮かんでいる。
 気配は完全に消していたはずだ――腕が鈍ったのだろうか?
「里中さん。ご近所の人でね、私が小さな頃からよく面倒見てくれたんだ。ほら、肉じゃが」
 里中さんがくれたタッパーを見せる。
 ほどよく薄茶色に色づいたジャガイモを見て、イナクタプトは眉を潜めた。
「私の気配を察しました」
「普通の人だよ」
 柊子がひとつつまんで口に入れる。懐かしいような、優しい味がした。
「おいし。おとーさんがこれ好きなんだよね。あたしも作ってるけど、なんか違うんだよなぁ」
 何が違うんだろう、と柊子は首を傾げた。
「年季じゃろて」
 いつの間にか背後に忍び寄った影虎が、無遠慮にタッパーに手を伸ばす。ジャガイモをひとつ口に入れると、「お、ほんまに柊子より上じゃ」と素直な感想を口にした。
「無礼な」
 イナクタプトが睨む。
「ほんまのことじゃろが」
 悪びれない様子に、イナクタプトが嫌悪感を滲ませる。
 緊張しかかった場に助け舟を出したのは、源次郎だった。
「お、なんだ。里中さん来たのかぁ」
 寝癖のついた頭のまま、ぼりぼりと胸を掻きながらのそりと歩く。休日はいつもこうだ。喉の奥まで見えるような大あくびをして、新聞を取る。一面もテレビ欄も飛ばして、まずはスポーツからというのが源次郎の読み方だ。
 源次郎が歩いた後に、だらけきった空気が流れる。
 毒気を抜かれたイナクタプトと影虎が、どちらからともなく距離をあけた。
「イナクタプトも、ひとつどう?」
 柊子が声をかけた。小さなかけらに爪楊枝が刺さっている。素手で食べることに抵抗のあるイナクタプトを気遣ってのことだろう。
 イナクタプトはためらいがちに手を伸ばした。
 里中さん特製肉じゃがは、確かに美味しかった。
「……私は、柊子の味の方が好きです」
「お世辞言わなくていいよ」
 快活に笑いながら、柊子は台所にいる源次郎のところへと駆けて行く。これから朝食の支度をするのだ。
 その行動があまりに早かったので、イナクタプトはそれが本心だと伝え損ねた。
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