まぜまぜダーリン
柊子の家の傍に、河原がある。
宅地開発の波に押され、コンクリートで整備された河原は、風雅とは程遠い人工的な美しさを保っていた。影虎は、一度ここで釣りをしようとして、柊子に止められたことがある。どうもそういう用途では出来ていないらしい。それを裏付けるように、魚影も稚魚と見まごうばかりの小さなものしか見られなかった。何より浅い。
それでも、幾ばくかの自然を残した景色は、影虎の気に入りの散歩コースであった。暇があればぶらぶらと出歩いている。時には近所の子供と遊ぶこともあった。
今日、イナクタプトと共に出向いたのも、特に理由があるわけではない。二人とも暇だった。それだけの話だ。
風がそよぎ、木々が揺れる。
さざめくような音を聞きながら、それでも体が安らぐことはない。
刺激を求める熱が渦巻いている。
平和、とは心底自分には不向きなものだと影虎は思った。
「よう飽きんもんじゃ」
傍にいるイナクタプトを奇異なものだと言わんばかりの視線を寄越す。
イナクタプトは視線を返しただけで、言葉にすることはなかった。
「食客も飽いたしのう」
口を全開にした大あくびを隠そうともせず、目尻にたまった涙を拭おうともせず、横柄に胸倉を掻くと、影虎は呟いた。
「そろそろ、帰るか」
召喚7:「影虎、帰還」
「帰る――?」
夕食時に影虎の希望を聞いた柊子は、目を丸くした。
「ほうじゃ、この夕飯食ったら帰るけぇの」
影虎は構わず茶碗を傾けた。最後の食いだめをしているようにも見える。
「そらまた急だな」
源次郎が呑気に茶をつぐ。イナクタプトは黙々と箸を動かしていた。
「急だよ! どうしたの?」
柊子がテーブルに手をつく。
「どうしたもこうしたも、暇じゃけぇ」
影虎が悪びれずに答えた。
「初めに言うたろ? 飽きたら帰るって」
「そりゃそうだけど……」
柊子は食卓に目を落とした。
そうだと知っていたら、いつもの食事ではなくて、もっと違ったものにしたのに。
影虎の好きなものとか、豪華なものとか。
それに。
「聞きたいこと、たくさんあったのに」
召喚のこと、母のこと。それから……
柊子はちらりと視線をあげた。
イナクタプトのこと。
影虎と違い、イナクタプトは今も必要最低限のことしか教えてくれない。まして、自分自身のことなど語ろうともしなかった。以前何度か話を振ってみたことがあるのだが、食いつきが悪い。身を乗り出して己語りをするイナクタプトも怖いといえば怖いが。
以来、なんとなく聞きづらくなっていた。
幼馴染だという影虎なら、知っていることも多いだろうに。
うなだれた柊子を見た影虎が、楊枝をくわえながら言った。
「聞きゃあええじゃろが。今」
「え」
柊子が顔をあげる。
「い、今……?」
テーブル中の視線が自分に集まるのを感じる。
意図せず柊子の顔が赤くなった。
「いいいい、いい! 大したことないから」
全力で否定してしまった。
怪訝そうな顔をする影虎に、不審そうな顔をするイナクタプト。
両者の視線を感じながら、柊子はため息をついていた。
見送りなんて不要じゃという影虎の言葉を受け、浴室には柊子と影虎の二人だけがいた。居間では、源次郎がこれ幸いとイナクタプトに酒をついでいる。
「帰還の仕方は、簡単じゃ。召喚陣をいつもと逆に書けばええ」
もくもくと湯気の張った浴室に、影虎の声が響いた。
「う、うん」
かきまぜ棒を持った柊子が、緊張気味に頷く。
その肩に必要以上の力が入っているのを見た影虎が、眉を顰めた。
「……大丈夫か?」
この調子では、自分を還そうとして別のものを呼びそうである。
「大丈夫。ロメオくんでやったことあるし、影虎の召喚陣も覚えてる……と思う」
影虎が小首を傾げた。
「覚えてる必要はなかろう? ほれ、ここにわかりやすくあるわけじゃし」
「は?」
柊子が顔を上げる。影虎は自分の頬、目の下を指差していた。アルファベットの「V」を横にしたような痣が見える。
「契約印、これが各自の召喚陣じゃ。わしはようけ呼ばれたいけぇ、シンプルにしとるがの」
がははは、と笑う影虎の声を聞きながら、柊子は呆然とした。
「そ……うだったの?」
「そうじゃあ」
まぁ書き順はあるけどな、と影虎は頷いた。
唖然とする柊子の肩をぽんと叩く。
「ほれ、肩の力が抜けたろが」
「う、うん」
勢いに押された柊子が、かきまぜ棒を湯船に入れた。Vの軌道を、逆に描く。
途端に影虎の足元が光りだした。同時に、吸い込まれるようにその姿が消えていく。
「か、影虎」
「うん?」
「これ!」
柊子が脱衣所に置いてあったお弁当箱を掴む。
押し付けるように渡すと、影虎は目を丸くしていた。
「急だったから、全然大したの作れなかったけど、影虎の好きな厚焼き玉子! むこうで食べてね」
膝から腿、どんどん消えていく影虎の姿に、柊子は早口でまくしたてた。
唖然としていた影虎が、にぃっと好戦的な笑みを浮かべる。
「ありがとさん」
と、柊子の頭に手を回して、自分の胸元に引き寄せた。
「か、影虎!?」
柊子が身じろいでも、影虎の腕は頑として動こうとしない。
着物越しに感じる影虎の体温と肌の感触。柊子は軽いパニックを起こしそうになった。
「世話になったけぇ、言うとく」
影虎は低く呟いた。声音が真摯なことに、柊子が息を呑む。
「帰還陣がなくとも、元の世界に還ることは出来る。簡単じゃ、呼んだヤツを殺せばええ」
それから一呼吸置いて、影虎は告げた。
「イナクタプトは前にそれをやっとる。柊子、気ぃつけぇよ」
「え……」
言い終わると同時に、影虎は柊子を突き放した。柊子が何か言う間もなく、その姿が掻き消える。
後には、浴室に立ち尽くす柊子の姿があった。
「柊子、大丈夫ですか?」
光が失せたことで影虎の帰還を察してか、イナクタプトが駆けつけた。
その声を聞いて、思わず背が強張る。
振り向いた柊子の顔は、ぎこちなさが溢れていた。
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