まぜまぜダーリン

 そもそもの発端は何か、と問われれば、柊子がイナクタプトを呼んだことだ。
 挙句に、召喚陣を忘れて戻れなくさせた。
「やっぱり帰りたい……よね」
 ベッドに寝転んだ柊子が呟く。
 この世界ではやることがない、と影虎は言った。
 確かに柊子の周りで、イナクタプトがその力を発揮できるかと問われれば、答えはNOだ。
「そうじゃなくても、自分の世界だもん」
 ごろりと寝返りを打つと、カーテンの隙間から三日月が見えた。
 影虎の言葉を思い出す。
 ――還ることはできる――召喚したヤツを殺せばええ――
 イナクタプトは、前にそれをやっている、とも。
 聞いた瞬間、いいや思い出した今も、柊子の血が凍りつくような感覚がする。血の気が引く、とでも言うのだろうか。
 イナクタプトが柊子に危害を加える。
 そんなこと、想像したこともなかった。
 影虎の言葉を聞いてからも、どうしても考えられない。
 悶々と寝付けないでいるうちに、もう時計は深夜の二時を過ぎている。
「あー、もう!」
 半身を起こした柊子は、枕に八つ当たりをした。
「肝心なことは言わないで、余計なことは言うんだから! 明日遅刻したらどうすんのよ! 影虎の馬鹿!」
 絶対もう一度呼んで問い詰めてやる! 柊子は固く誓った。
 体を投げ出すようにベッドに身を沈めて、ちらりとドアを見やる。
 ドアの外に感じる、わずかな人の気配。いつの間にか、それに慣れてしまった。
「……」
 今も、起きているんだろうか。
 柊子はじっとドアを見つめた。


 小さな足音に続いて、静かにドアが開いた。
 ドアの前で座っていたイナクタプトが、顔を上げる。カーディガンを羽織った柊子が、そこに立っていた。
「なにか」
「……うん」
 階下で寝ている源次郎を気遣って、自然会話は小声になる。もっとも、通常の会話をしたところで、源次郎には己のいびきで届かないだろうが。
 立ち上がろうとするイナクタプトを制して、柊子がその前に腰を下ろした。
「影虎、帰っちゃったね」
 ぽつりと柊子が呟いた。
「イナクタプトも、帰りたい?」
 おずおずと見上げられるように問われて、イナクタプトの目が瞬いた。影虎が帰還してから、柊子がどことなく元気がなかった理由がわかった気がする。
「私は……」
 イナクタプトが視線を落とした。
 甲冑を着なくなって、剣を手にしなくなって、どれぐらいの時間が過ぎたろう。
 己は変わっただろうか? それとも以前のままだろうか?
「帰りたい、よね」
 イナクタプトの返事を待たずに、柊子は言った。
「ごめんね、召喚陣、忘れちゃって」
 そう言って、イナクタプトの顔をじっと見る。そこには確かに契約印としての痣が浮き出ていた。しかし、影虎やロメオくんのように単純ではない。強いて漢字に例えるなら、「承」に近いエキゾチックな紋様だ。書き順など、今の柊子にわかるはずがなかった。
「気にしないでください、柊子」
 イナクタプトは答えた。珍しく情の滲み出た、穏やかな声だった。
「私は、この世界が気に入っています」
 イナクタプトの形の良い唇が微笑んだ。
 ぽかんとした表情で、柊子がイナクタプトを凝視する。
「柊子?」
「初めて……見た気がする。イナクタプトが笑ってるの」
 言われたイナクタプトが慌てて口元に手をやった。もう笑みは引っ込んで、代わりに現れたのはいつもどおりの生真面目で気難しげな表情だった。
「……そう、ですか……?」
 イナクタプトが目を閉じた。羞恥のせいか、頬が赤い。それを見た柊子は、思わず噴き出した。くすくすと、笑い声を噛み殺す。
「柊子」
 咎めるようなニュアンスに、柊子は「ごめんなさい」と小さく詫びた。
「なんとなく、嬉しくって」
 イナクタプトの新しい表情を見れたことが。
 居心地が悪そうに、イナクタプトが視線をそらす。それもまた、拗ねているようだと柊子は思った。


 翌日。
 夕食の後片付けを終えた柊子は、腕をまくって浴室に向かった。
 慌てたのは脱衣所にいた源次郎である。脱ぎかけていたパンツを慌ててたくしあげる。
「しゅ、柊子!?」
「おとーさん、どいて! 影虎呼ぶから!」
 源次郎を押しのけるようにして浴室に入った柊子は、かきまぜ棒を手に取った。
「絶対! 説明させてやるんだから!」
 気合一閃、影虎の召喚陣を描く。
 一瞬にして湯船に光が満ち――しかし、浴室を満たすことなく、光は湯船の中に消えてしまった。影虎の姿も見えない。
「あ、あれ?」
 描いた順番が違っただろうかと訝しがりながら、柊子が浴室を見渡す。冷や汗を拭った源次郎が、息を吐きながら言った。
「他のヤツに召喚されちまったんだろ」
「そんなことがあるの?」
「まぁなぁ。召喚士としての力が強ければ、前の召喚をキャンセルしてこっちに呼ぶこともできるが、お前さんはそこまでの力がないってこった」
「……ふぅん……」
 まだ納得がいかない顔で、柊子が湯船を見た。
 パンツ一丁の源次郎が、腰に手を当ててふんぞり返る。
「なんだ? たまにはおとーさんと一緒に入るか?」
「入るわけないでしょ! 馬鹿!」
 源次郎の頭にかきまぜ棒がヒットする。イナクタプトは静かに目を覆った。

 影虎はきっと、どこかの世界で戦っている。
 次に柊子に会う日まで。

【召喚7・END】
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