まぜまぜダーリン

 真っ暗な空間に、藤棚がひとつ。はらはらと散っていく花弁は、際限なく現れては消えた。まるで雪のように、風に抱かれながら散っていく。
 綺麗だ。
 ぼんやりとした頭でそれを眺めている柊子の視界に、男の姿が映った。
 淡い色彩の長髪が暗闇になびいている。藤の木に体を預け、目を細めながら盃に口をつける姿は、この空間にどこまでも馴染んでいるように見えた。
「ここは……」
「俺の世界だ。ゆっくりしていけばいい」
「ゆっくりって……」
 どこか霞がかったように頭が重い。どこかへ行かなければいけなかったのに、どこだったか、柊子には思い出せなかった。
「心が一杯なんだろう? 休んでいけ」
 聞き心地の良い声が胸に響く。
 柊子は虚ろな気持ちで男を眺めた。
 誰かに、なにかを聞きたかった気がする。
 たくさんのことを。
 けれどこの場所はあまりに静かで、男の言う通り、何もせずにいるのもいいかと思えた。
 うとうとと目を閉じる。やがて柊子の視界も闇に閉ざされた。


 どのくらい眠っていたのだろう。
 不意に柊子は目を覚ました。
「ああああああああっ! 寝坊しちゃった! 今何時!?」
 がばりと飛び起きる。
 が、そこは家ではなかった。いつものベッドもどこへやら。真っ暗な空間が広がっている。
「あれ? なんだっけここ」
 寝ぼけた柊子が辺りを見回すと、腕を組んで藤の木にもたれたまま柊子を見やっていた男と目があった。思い切り呆れた顔をしている。
「あ」
 男の姿を見て、柊子はようやく思い出した。なぜ自分がここにいるのかを。
 瞬間、男が腹を抱えて笑い出した。
「な、な!」
 柊子が耳まで真っ赤になった。
「ははは、数多の人間を見てきたが、ここまで寝ぼけたヤツは初めてだ! 面白い!」 
 よほどツボに嵌ったのか、呆然とする柊子をよそに、男はいつまでも笑い続けた。
「ちょっと!」
 柊子の顔に怒りが満ちる。
「そんなに笑うなんてひどい!」
「そっか? 悪かったな。だが笑わせたのはお前だ」
 詫びになっているのやらいないのやら、とりあえず男は笑いを止めた。しかし柊子を見る目が珍獣でも見るような輝きに満ちている。むっと拗ねる柊子を見つつ、男は口を開いた。
「ま、そんだけ元気になったなら、もう大丈夫だろ。ちょうど迎えも来たようだしな」
「迎え?」
「見てみろ」
 男の指先が闇を示す。
 その先にイナクタプトの姿を見つけた柊子は、小さく息を呑んだ。
「イナクタプト……!」
 元の世界で、柊子の名を呼びながら探し回っているイナクタプトの姿が見えた。いつから探していたのか、額に汗が滲んでいる。
 早足で公園を通り過ぎかけたイナクタプトは、何かに気づいたように足を止めた。藤棚を凝視する。そこから、柊子の声が聞こえた気がした。
 異世界の者だけが感じる独特の違和感。イナクタプトは己の直感を信じ、剣を抜いた。
 藤棚を斬りつける。
 ぱっくりと空間が裂け、そこから闇が吹き出した。中に藤の花弁も混じっている。むせ返るような藤の香りと押し寄せる強風の中、目をこらしながらイナクタプトは叫んだ。
「柊子! そこにいますか!?」
「呼んでやれ。それけであいつはここに来れる」
 男の声に、柊子は口を開きかけた。
 イナクタプトを呼ぶ、その声が出て来ない。
「どうした?」
 ぎこちない柊子の様子を見た男が怪訝そうな顔をする。
「あたし……呼べない」
 柊子は答えた。
 手が、わずかに震えている。
「だって、聞いちゃった」
 呟いた柊子の脳裏に、影虎の囁きが蘇る。

 ――帰還陣がなくとも、元の世界に還ることは出来る。
 ――簡単じゃ、呼んだヤツを殺せばええ。
 ――イナクタプトは前にそれをやっとる。
 ――柊子、気ぃつけぇよ。

「聞いちゃった、だけ、なのに」
 闇を切り裂き進もうとするイナクタプトの姿が見える。柊子の目に、涙が浮かんだ。
「どうして、信じられないんだろう」
 あの人はあんなに一生懸命なのに。
 芽吹いた不信感が、消えない。
 確かめたいのに、それすらも怖くて。
「聞けばいいだろ」
 柊子の心を読んだ男が告げた。
「答えないヤツは男じゃない」
 かけられた言葉に柊子が唇を噛み締める。
 男はやれやれと嘆息した。
「なんだ。俺に会った時も、ここに来た時もそんな顔はしなかったくせに。しょうがないヤツだな」
 震える柊子の手を取り、男は言った。
「怖いのは当たり前だ。あいつを信じようとしてるんだろ? 誰かを心に受け入れる時には、勇気がいるもんだ」
 男の手に体温はなかった。それでも、その掌が力強い。あたたかい、と柊子は思った。
「勇気なら俺がくれてやる。傷ついたならまたここに来ればいい。ここはそういう場所だ」
 人に愛でられた藤が、その恩を返す場所だと男は告げた。
「さあ、あいつを呼んでやれ。今もお前を探してる」
 心地良い声に背を押されて、柊子は口を開いた。
 イナクタプトの名を呼ぶ。
 今まで何度となく口にしたことがあるのに、初めて名を呼んだような気がした。
「柊子!」
 声に導かれるように、イナクタプトが手を伸ばした。
 柊子に向けて、真っ直ぐに伸ばされた手。
 その手を掴んだ。
 軽く背を押され、振り返る。漆黒の闇の中、浮かぶ藤棚の下で男が軽く手を上げていた。
「名前!」
 闇に呑まれていくその光景に、柊子は叫んだ。
「あなたの名前は?」
 男が意外そうな顔をする。にっと笑った後、男の唇が開いた。
 己の名を告げる男の声が、柊子に届くことはなかった。


 轟、と藤の花が唸り声を上げたかと思うと、世界が一変した。夕陽が街並みを茜色に染め上げている。遠くチャイムの鳴る音、子供たちの声がした。
 元の世界に帰って来たのだ。
 柊子は、藤棚の下でイナクタプトの手を握ったまま座り込んでいた。
「ご無事でなによりでした」
 イナクタプトの声に、顔をあげる。
「うん……ありがと」
 柊子がほっと息をついた。
「でもなんでわかったの? あたしがここにいるって」
「呼ばれた気がしたので」
 言われた言葉に柊子は目を丸くした。
 イナクタプトを呼んだのは、最後の最後で――否、呼んでいた。一番初め、この公園の藤の傍で、あの男に出会った時に。
「そ、か」
 なんだかその事実が気恥ずかしくて、柊子は目をそらした。
「なんだったんだろ、あの人。イナクタプト達の仲間……じゃないよね」
「化生の類でしょう」
 イナクタプトは冷静に答えた。
「私の世界ではあまり馴染みがありませんが、そういう者がいる世界もあります」
 生真面目な返答に、柊子が目を丸くする。
「あの……ここでもあんまり馴染みがないんだけど?」
「そうなんですか?」
 ですが以前、柊子が見ていた「てれびばんぐみ」ではこういうものを特集していました、とイナクタプトが告げると、柊子はたまらず笑い出した。
「柊子?」
「あはは、あ、ごめんごめん。なんでもない」
 笑いながら目尻の涙を拭う。
「なんかいつものイナクタプトだなーって。ちょっと安心して」
 柊子の言葉の意味を掴みあぐねて、イナクタプトは怪訝な顔をした。
 聞けるかもしれない、今なら。
 影虎が残した、言葉の真実を。
 笑みの余韻を残しながら、柊子はじっとイナクタプトの顔を見つめた。
『勇気なら俺がくれてやる』
 男の言葉が柊子の背を押す。
「柊子?」
「ん、帰ろう、イナクタプト。たくさん話したいことがあるんだ」
 にこりと笑った柊子が歩き出す。イナクタプトが後に続いた。
 公園の出口で、柊子が振り向いた。道路に蔓をはみ出させ、夕陽を浴びる藤棚に、そっと声をかける。
「ありがと。藤ノ木の……ななしさん」
 藤の花が見送るように揺れた。


【召喚8・END】
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