まぜまぜダーリン

 お湯を沸かして紅茶を入れる。今日のおやつは、里中さんが焼いてくれたパウンドケーキだ。
「あらー、柊子ちゃん、ちょうどよかった! おばさんケーキ焼いたのよ!」
 家に帰り、柊子が玄関でかばんを下ろした瞬間に、陽気な声がした。振り返るイナクタプトの背後からひょっこりとその姿を現したのは、里中さんだった。
「おばさん、ありがとう!」
 笑顔で受け取る柊子とは対照的に、イナクタプトの表情は硬かった。
「あらー、いい男が台無しじゃない。どおしたのー?」
 里中さんが、からからと笑いながらイナクタプトの胸を叩く。それでも、イナクタプトは表情を崩そうとはしなかった。
「あなたは、一体……」
 なにか武道でもやっていたのかと訊ねる。
「あらやだ、なんで?」
「……気配を感じられなかったので」
 そして先日は物陰にいたはずの己の存在を見透かされていた。イナクタプトにとって、里中さんは未知の生き物だ。
「だってそりゃ、アナタ」
 キヒヒ、と里中さんが笑いをこらえる。
「バーゲンよ、バーゲン修行」
「バーゲン?」
 イナクタプトの眉が寄った。
「戦場よー。気配を消して、さっと目当ての物取らなきゃね。素早さが命だし」
 おばちゃんスゴイのよー! もうプロだからね! と里中さんが腕をまくる。
「もー、里中さんったら」
 柊子がくすくす笑いだした。
「プロ……」
 イナクタプトが呆然と呟く。
「そうよ。今度イナさんも一緒にいきましょ」
 あははと笑いながら里中さんが帰っていく。
「ありがとう、里中さん」 柊子が手を振った。
「よかったね、イナクタプト。お茶にしようよ」
 柊子の声にも、イナクタプトは動かなかった。里中さんの背を見つめ続ける。
「イナクタプト?」
「この世界にも戦場はあったのですね」
 イナクタプトが深刻そうに呟く。
「バーゲン? まあ、確かに女の戦場だけど……」
「女性だけなのですか? 戦場が?」
 イナクタプトが、信じられないという顔をした。


 召喚9:「蘭蘭(らんらん)」


 聞きたいことはたくさんある。
 でも落ち着いて。まずは深呼吸。
 柊子は静かに息を吸い込んだ。ティースプーンで紅茶を混ぜながらひとりごちる。
「でもなんだか改まると聞きにくいなぁ……」
「なにがですか?」
 不意にイナクタプトの声がする。柊子のすぐ後ろに立っていた。いつの間に。
「えっ、あ、ああ!」
 慌てた柊子の手から、ティースプーンが滑り落ちる。空中に舞ったスプーンを、イナクタプトが当然のように掌に収めた。無言で差し出されたそれを、柊子が受け取る。
「あ、ありがとう……」
 まだ何も聞いていないのに、質問が全部見透かされた気がする。
「柊子?」
 イナクタプトが怪訝な顔をした。
 じっと柊子の顔を覗き込む。褐色の肌によく映える金色の瞳。改めてみると、ずいぶんと整った顔立ちをしている。平々凡々な柊子の顔とは、比べようもない。
「う……」
 柊子の決意が揺らぐ。
「あ、そだ。お風呂掃除しなきゃ。イナクタプト、先にこれ飲んでて」
 イナクタプトの手に紅茶を押し付ける。カップを受け取ったイナクタプトの手に指先が触れる。
 大きな手。
 柊子は、自分の顔が熱くなるのがよくわかった。
「柊……」
「すぐ戻るから!」
 イナクタプトを置き去りにして、浴室に駆け込む。ばたんと扉を閉めて、柊子は息を吐いた。
 今頃、イナクタプトは疑問符を貼り付けたような顔をしているだろう。
「はあ」
 軽く洗って戻ろうか、と洗面台を見る。鏡の中に浴槽が映っていた。昨夜の湯がまだ残っている。
「もう、おとーさんだな」
 仕方ないなぁ、と呟いた柊子が浴槽の栓を抜く。残り湯が音を立てて流れていく、その様をなんの気なしに眺めていた時だった。
「え?」
 柊子は、目を疑った。
 排水溝に引き込まれていく水の中に、またたく光。ちかちかと弱く、かすかだった光は、だんだん力強く浴槽を満たしていった。
「な、なんで?」
 慌てた柊子があたりを見回す。今は、ただ浴槽の栓を抜いただけだ。かきまぜ棒を手にすらしていない。
 それでも、この光には見覚えがある。いいや、間違えようがない。いまや浴室全体を包んだ光は、まごうことなき召喚の証だった。
「う、うそ……!」
 のけぞる柊子の前に、白と黒の中華服を身にまとった戦士が現れた。
 うつむき、膝をついた姿勢だが、小柄な姿から少女だとわかる。柊子と同い年ぐらいだろうか。肌は白く、漆黒の長い髪を頭上でひとつに縛りあげている。花を模した朱色の髪飾りがよく映えていた。
「この機会、待ってた」
 ぎり、と唇を噛み締めながら、少女は呻いた。
「え?」
 事態を把握しきれない柊子の前で、少女が立ち上がる。少女は容赦なく柊子を睨みつけた。
「イナ様、返せ!」
 言うが早いか、柊子に飛び掛る。少女が振り上げた手から、長い鍵爪が黒い光を放っているのが見えた。
「きゃああ!」
 柊子が思わず目をつぶる。途端に、あたりに金属音が響いた。
 柊子がゆっくりと目を開く。視界に、鮮やかな銀が広がった。
 知っている。もう見慣れてしまった、イナクタプトの髪の色だ。
 イナクタプトは柊子を背にかばい、剣で鍵爪を受けていた。わずかな均衡を保った後、少女が飛びのく。
 長い黒髪が少女の動きにあわせてなびいた。
 イナクタプトの目が厳しさを増す。
「なぜ来た……蘭蘭」
「えっ、知り合い?」
 イナクタプトの言葉に驚いた柊子が顔を上げる。けれど、イナクタプトの表情に再会の喜びはない。蘭蘭と呼ばれた少女もまた、柊子への敵意をむきだしにしたまま、イナクタプトから目をそらそうとはしなかった。
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