まぜまぜダーリン

 イナクタプトは口数が多いほうではない。むしろ極端に少ない部類だった。表情も豊かだとは言いがたい。初めに出逢った頃は、四六時中憮然とされているようで、柊子も心穏やかではいられなかった。それでも、最近は唇のわずかな緩みや優しげに細められる目でその心情を察することができるようになった気がする。
 気がする、だけかもしれないが。
 柊子は朝食の味噌汁をすすりながら、イナクタプトを垣間見た。黙々と箸を進める姿は、普段となにひとつ変わりないように思える。銀髪に隠れ伏せがちな山吹色の目も、必要以外口を開こうとしない姿勢も、いつものままだ。
 しかし、柊子の経験が全力で叫んでいた。
 今、イナクタプトは間違いなく怒っているのだと。


召喚10:「グレートパンダ」


 不機嫌の原因はイナクタプトの隣でアジの開きを丸呑みしようとしている小柄な少女――蘭蘭にあるに違いない。昨夜、居座りを決め込んだ蘭蘭にイナクタプトは何度も帰るよう命じた。頑なに拒む蘭蘭に、助け舟を出したのは柊子だった。
「いいじゃない、ちょっとぐらい」
「柊子、しかし……」
「イナ様、主、そう言ってる」
 柊子に言われては仕方ない。そう判断したのだろう。イナクタプトはそれ以上蘭蘭に帰れとは言わなかった。かといって、歓迎するわけでもなかったが。
「蘭蘭ちゃん、それ、小骨が」
「蘭蘭、平気」
 柊子の心配をよそに、蘭蘭はアジの開きを放り投げた。鵜飼の鵜よろしくぱっくりと口を開け、丸呑みにする。ばりぼりと骨を噛み砕く音が居間に響いた。

 中川家の庭には墓がある。
 昨夜、源次郎が愛する松の絶命を知り、涙ながらに建てたものだ。「松の木ちゃんここに眠る」と書かれた墓標の前に、イナクタプトが佇んでいた。
「気にしなくっていいよ、おとーさんったら大袈裟なんだから」
「柊子」
 しかし、とイナクタプトは墓標をかえり見た。確かに松の木は折れた。しかし、根元から折れたわけではない。時間さえかければ再生は可能だろう。昨夜、「ナイスバディに育てていたのに」と悲嘆に暮れる源次郎にも、柊子はそう言ってなだめたものだった。
「……申し訳ありません」
 イナクタプトが重ねて謝罪する。
「あたしは、蘭蘭ちゃんの気持ち、わかるな」
 柊子は伸びをした。
「ねえ、イナクタプト。怒るのはわかるけど、蘭蘭ちゃんにもう少し優しくしてあげなよ」
「……優しく?」
 イナクタプトは怪訝な顔をした。
「必要ないと思いますが」
「でも」
「柊子、眷属には眷属の掟があります。蘭蘭はそれを破ったのです。本来なら厳罰に処せられるべきで……」
 淡々と彼らのルールを述べかけたイナクタプトは、柊子の表情を見て口を閉ざした。いつも朗らかな笑顔を欠かさない柊子が、口を一文字に結んで悲しげに眉を寄せている。
「あたし、イナクタプトはもっと女の子に優しいんだと思ってた」
 あたしに優しいんだから――と言いかけて、柊子は気づいた。
 イナクタプトが柊子に気を配るのは、柊子が主だからだ。
「……女の子……?」
 イナクタプトの眉間に深い皺が寄る。
「蘭蘭、満腹、満足」
 上機嫌な蘭蘭が居間から出てきた。軽快なリズムに乗る長い黒髪がイナクタプトの視界を掠める。
 それで彼は、ようやく理解した。
「そうか、蘭蘭」
「はい?」
 蘭蘭は立ち止まった。
「戻れ」
 イナクタプトの言葉に蘭蘭が真顔に戻る。
「いやね!」
「命令だ」
 尚も抗議しようとする蘭蘭を制しながら、イナクタプトは柊子に向き直った。
「いいですか、柊子。よく見ておいて下さい。蘭蘭は――」
 ぱちん、とイナクタプトの指が鳴る。
 とたんに蘭蘭の姿が変化した。
 ただでさえ小柄だった体はもっと小さく、長い黒髪は体に吸い込まれるように消えていく。代わりにその白い肌にはっきりと黒の紋様が浮かんだ。
 ずんぐりむっくりとしたその体躯、姿形を柊子はよく知っていた。
 大きさは随分違うが――間違いない。
 パンダだ。
「通称グレートパンダ。今は手のひらに乗る大きさですが、感情が高ぶればいつも柊子が買い物に行くデパートよりも大きなサイズになります。性格は基本温厚ですが、蘭蘭はその限りではありません」
 珍しく一息で説明したイナクタプトは、深くため息をついた。
「オスかメスかと聞かれれば、メスですが」
 イナクタプトの掌を蹴り、肩によじのぼった蘭蘭がイナクタプトの銀髪を引っ張って抗議する。
 柊子はただただ目を丸くしていた。
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