まぜまぜダーリン

 予想に反して、というべきか。
 部活を終えた柊子に対し、吾郎は一切質問をしなかった。
 なぜかと問われれば、答えは明白である。
「柊子、そちらは」
 校門で待っていたイナクタプトが吾郎を一瞥した瞬間、
「あ、エート、新聞部の……」
 紹介しかけた柊子の言葉も半ばで、吾郎は脱兎の如く逃げ出したのだ。
「シンブンブの……?」
「あれ?」
 柊子が唖然とその後姿を見送る。
「あの者は確か、家にも来ました。用件を問うたらやはり逃げましたが、捕まえるべきだったでしょうか」
「ううん! そんなのいらないよ! ……あ」
 ぴたりと動きを止めた柊子は、次の瞬間、イナクタプトの鼻先に指を突きつけた。
「昼間のあれ! イナクタプトでしょ!?」
 己の鼻先につきつけられた柊子の指先を凝視したイナクタプトは、しばらく絶句していた。
「昼の……?」
「ほら、歯磨きしてる時に!」
「……ああ」
 ようやく合点がいったらしい。
「柊子が困っていたので」
「もー、学校は大丈夫だって何回言ったらわかるの! もしかして今までも黙って見てたの!?」
「……時々……」
「ダメ!」
「しかし、柊子に何かあっては」
「なんもないったら!」
 肩先を怒らせながら、柊子が大股に歩き出した。イナクタプトに完全に背を向けている。遠ざかる柊子の背に、イナクタプトが詫びた。
「申し訳……」
「うそ」
 柊子が歩を止める。くるりと振り返ったその表情は、こぼれるような笑顔だった。
「ちょっと助かった。ありがとね」
「は」
 ころころと変わる柊子の表情に全くついていけない。
 呆然としているイナクタプトに、柊子は小走りに駆け寄った。
「でも、もうダメだからね! 今回だけだよ」
 しっかりと念を押そうとする年下の主に、イナクタプトの頬が綻んだ。口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「わかりました、柊子」
 その微妙な変化に柊子が気付いたか否か――彼女は満足そうに笑うと、イナクタプトと共に家路へとついた。

 平和な一日の締めは、やはり風呂である。
 湯船に満ちた湯は心地良い温度を保ち、ほくほくとした湯気が早く入れと誘う。柊子は思い切り伸びをした。
「あー、今日もつかれたあ」
 家に帰れば蘭蘭は何事もなかったかのように食事をしていたし、源次郎の怪我もたいしたことはなかった。二人で少しずつ家の修理をしているようで、特に日常に支障はない。
「おとーさん、本当にすごいんだぁ」
 繕われた浴室の屋根を見た柊子がひとりごちる。半壊とも全壊ともつかぬ我が家を驚異的なスピードで直した源次郎は、居間で晩酌を楽しんでいるはずだ。
「じゃ、お風呂入っちゃお」
 にこにこと柊子がかきまぜ棒を湯船に入れる。笑みが消えたのは、かきまぜ棒を引き抜いた瞬間だった。
 湯船の底に渦が巻き、光が見える。
「え……?」
 柊子が頬をひきつらせている間に、光はどんどん湯船に満ち、やがて溢れた。浴室全体を眩しい光が覆う。
「なんで――!?」
 叫びながら柊子は思い至った。
 佐藤さんを召喚した時のことだ。

 召喚の剣士が倒した相手は、その後召喚の対象となる――

「イナクタプトは誰も倒してなんか……」
 そこまで叫んではっとする。
 倒した。
 昼間。
 学校で。
 吾郎を……!
 その瞬間、湯煙の向こうで、デジカメのシャッター音がした。
「ナイススクープ! いただきだい!」
 召喚された吾郎が、柊子の悲鳴を聞きつけたイナクタプトに叩き伏せられるのは、3秒後の話である。


 当然の如くデジカメのデータは没収。ついでにこのことは黙っているようにと念には念を押して吾郎を帰しても、柊子の怒りは収まらなかった。
 剣呑な気配にイナクタプトも源次郎も気圧されて、居間には重い沈黙が満ちた。蘭蘭だけがなにひとつ構わずに煎餅を食べている。
「もー我慢できない!」
 柊子は立ち上がった。怒り肩のまま、浴室へと向かう。
 それもこれも影虎が蘭蘭をたきつけたせいだ。八つ当たり気味な理由だが、今の柊子は誰でもいいから怒りたい、そんな気分だった。
「ちょっとこっち来なさいよ、影虎あ!」
 かきまぜ棒を掴み、柊子が召喚陣を描く。
 影虎の頬に刻まれた紋様と同じ、シンプルなVライン。
 かきまぜ棒を引き抜いた瞬間、浴槽に光が満ちた。光は膨れ上がるように浴槽から零れ、やがて浴室全体を照らし出した。
 湯の上に召喚陣が浮き上がる。
 湯煙に混じって、男の姿が垣間見えた。着流しのシルエット、大小二つの太刀、ざんばら頭を無造作に束ねた髪。間違いない、影虎だ。
「柊子、か……?」
 懐かしい声が問う。低い声は、少し掠れているようだった。
「そうよ! もう影虎のせいで大変だったんだか……」
「助かった、わ……」
 柊子の言葉を遮るように呟くと、影虎が柊子にのしかかった。タイルで足を滑らせた柊子が、浴室の床で頭を打つ。
「いたっ……、ちょ、ちょっと、影虎……!」
 それでも、影虎がそこをどく気配はなかった。それどころかさらに重さが増している。柊子は身動きできなかった。
「やだ、冗談やめてよ……!」
 ぐい、と影虎の肩を押した柊子の手が滑る。
「……え……?」
 こわごわとぬめりの正体を確かめる、その視界に映ったもの。
「なに、これ……血……?」
 どす黒い液体が、柊子の手を汚していた。気づけば、床のタイルが濡れている。湯ではない。これも、血だ。影虎の――
「か……」
 柊子は、影虎の顔を見た。
 顔色を失い、ぐったりと伏せた様からはいつもの覇気が感じられない。
「いやあああ!」
 柊子が叫ぶ。その悲鳴にすら、影虎は反応しなかった。


【召喚11・END】
Copyright 2008 mao hirose All rights reserved.