まぜまぜダーリン

 あれは、いつだっただろう。
 偶然に影虎を召喚したあの日。
 刀をめぐって言い争った、それすら懐かしい気がする。
「か……げ、とら」
 柊子が呟く。
 覆いかぶさるような形で倒れた影虎は、身動き一つしなかった。荒い息が柊子の首筋にかかる。それだけがかろうじて影虎の生存を告げていた。
「しっかりしてよ、影虎ぁ!」
「柊子!」
 主の悲鳴を聞きつけたイナクタプトが浴室の扉を開ける。むせかえる血の匂いに眉を潜めた彼は、すぐさま源次郎を呼んだ。
「源次郎殿!」
 普段ならばのらりくらりとかわしそうな源次郎も、この時ばかりは駆けつけた。イナクタプトの声にただならぬものを感じたのだろう。
「影虎を頼みます」
 イナクタプトが影虎の体を担ぎ上げ、源次郎に託す。
「こいつはひでぇな」
 肩から腹にかけて裂けた傷を見て、源次郎が眉を潜めた。傍らにあったバスタオルで乱暴に体を縛り、客室へと運ぶ。その後姿を見届けたイナクタプトは、柊子に向き直った。
 影虎の血を浴びたまま、呆然と座り込んでいる。
「柊子、大丈夫ですか」
 声をかけながらイナクタプトが膝をつく。柊子の頬についた影虎の血を、その指で拭いた。
「しゅ……」
「おい、イナさん手伝ってくれ。柊子、タオル貸せ。もっとだ!」
 客間から源次郎の怒声が飛ぶ。にも関わらず、柊子は心ここにあらずといった状態で、浴室にできた血溜まりをただ見ていた。
「柊子! ぼさっとすんな!」
 源次郎が声を荒げる。その声に弾かれるように、柊子は我に返った。
「あ、う、うん」
 慌てて立ち上がる。よろけそうになる体をイナクタプトが支えた。
「柊子」
「大丈夫、影虎のとこに行ってあげて」
 ぼうっとしてる場合じゃなかった。柊子は己を叱咤した。イナクタプトにありったけのタオルを手渡す。キッチンに向かう途中に、開け放した扉の向こうに眠る影虎の姿が見えた。
「湯だ、柊子! 筧先生も呼べよ!」
 柊子の姿を認めた源次郎が声をかける。
「うん、わかってる!」
 源次郎の大工仲間が怪我をした時に、何度かこういう場面に出くわしたことがあるじゃないか。大丈夫。柊子は自分に言い聞かせた。
 鍋に水を張り、火にかける。傍にあった携帯に手を伸ばすと、源次郎なじみの医者に電話をかけた。
 コール音がやけに長く感じる。
 携帯を持つ指先が震えているのがよくわかった。
 大丈夫。
 柊子はもう一度自分に言い聞かせた。

 大丈夫、影虎はきっと助かる――


召喚12:「町のお医者だカケイさん」


 筧藤吉は医者だ。中川家のすぐそばで、小さな診療所を構えている。齢は還暦も間近、とうに過ぎたという説もある。柊子より小さな背は老齢のために曲がり、白衣から伸びた腕には皺が刻まれている。仏を絵に書いたような柔和な顔をしているのが特徴だ。
 内科はからっきし弱いが外科には滅法強いのだと、いつだったか源次郎が力説していた。その割に柊子が風邪を引くとそこに連れて行かれたのだが。
 そんな筧さんはタオルでぐるぐる巻きにされた影虎の傷を見て言った。
「源さん、これは」
「ああすまねぇな先生、また頼むわ」
 ボンドでもなんでもいいからくっつけてくれよ、と源次郎が頼み込む。筧さんは静かに息を吐いた。
「……またわけありかい? しょうがないねぇ」
 ゆったりとした喋りだ。これだけの傷を目の前にしても、いつもと変わらない。ちょっとは焦ってほしいと柊子は思った。
「まだ柊子ちゃんが生まれる前だったか、怪我をしたドラゴンの子供を治してくれと持ってきたのは。うちは獣医じゃないのにねぇ」
「あれは冬子が間違って呼んで……じゃねぇ、拾ってきたんだ。ほっとくわけにもいかねぇだろ」
「その他にもねぇ、スキーで怪我をした雪男とか、凍死寸前の雪女とか、溺れた河童とか、どこでどう見つけてくるのかねぇ。わたしは不思議でしょうがないですよ」
「せ、先生、あの」
 昔話をしている場合ではない。柊子が口を挟むと、筧さんは柊子の顔をじっと見つめた。
「柊子ちゃん、大きくなったねぇ」
 細い目をさらに細めて笑う。
「おひさしぶりです。ってあの、先生、影虎を」
「おお」
 そうだった、と膝を叩いて筧さんは客室に横たわる影虎に向き直った。
「ほ、人だ」
 安堵したかのような笑みが顔に広がる。
「源さんから人の手当を頼まれるのは久々だねぇ」
「大工で若いのが怪我するのなんざしょっちゅうじゃねぇか」
「そうなんだけどねぇ」
 筧さんは意味深に微笑んだ。
「さて」
 ゆるやかな仕草で医療かばんに手を伸ばす。その顔から徐々に笑みが消えていった。
「わたしの手に余る傷でなければいいんだけどねぇ」
「柊子、出ろ」
 源次郎に言われて、柊子はためらった。
「え、でも」
 なにか手伝えることがあるならそうしたい――柊子がそう言う前に、筧さんが口を開いた。
「そのほうがいいねぇ」
 いると邪魔になるのだ。柊子は察した。
 青ざめる影虎の顔を見ながら立ち上がる。柊子は唇を噛み締めた。目の奥がじんわりと熱くなる。
「先生、影虎を助けて」
 筧さんはなにも言わずに頷いた。柊子には、それがひどく頼もしく思えた。
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