まぜまぜダーリン

 町医者だが藪医者かもしれない筧さんは、闇医者かもしれなかった。
 柊子の家の客室で影虎の傷を縫い合わせると、「ちょっと熱が出るかもしれないから」と薬を置いていった。この台詞、柊子が風邪を引くたびに言われた言葉だ。しかも、薬まで同じ気がする。
「大丈夫なのかな」
 柊子が明かりに透かすように薬を眺める。
「馬鹿、お前、筧さんは名医だぞ」
 源次郎がなみなみとついだ茶をあおった。
「その証拠にほれ、影さん落ち着いたじゃねーか」
「……本当だ」
 柊子がちらりと客室を覗く。影虎はただ眠っているように見えた。
「手間をかけました。影虎には私がついていますので、二人とも休んでください」
 イナクタプトが静かに頭を下げる。源次郎が大袈裟にあくびをした。
「ふぁー、そうだな。もう十二時過ぎてるじゃねーか」
「あたしも影虎と一緒にいる」
「しかし」
「いいでしょ、おとーさん」
「好きにしな」
 俺は寝るからよ、と源次郎が片手を振る。
「ただし静かにするんだぞ」
「わかってるよ」
 子供じゃないんだから、と柊子はむくれてみせた。

 秒針が時を刻む。その音と、影虎の呼吸音だけが部屋に響いていた。
 中川家の客室。八畳間の和室に敷かれた布団に横たえられた影虎は、幾分青ざめていたが穏やかな顔で寝ていた。額に乗せたタオルを柊子が手に取る。洗面器の水に浸して、呟いた。
「よかった……ほんとに落ち着いたみたいだね」
 影虎を挟んで対面にいるイナクタプトが無言で頷いた。
「なんでこんな怪我してたんだろう」
「我々に怪我はつきものです」
 冷静な声でイナクタプトは答えた。
「そりゃそうなんだろうけど、でも、手当てもしていないなんて」
 なんで、と柊子が疑問を口にする。その問いにも、イナクタプトは答えた。
「使えなくなった戦士は帰還させる、当然のことです」
「当然って」
 柊子がしぼりかけていたタオルを洗面器に落す。水音に影虎の眉がぴくりと動いた。
「だってこんな大怪我……死んじゃったかもしれないんだよ?」
「止むを得ません」
 イナクタプトは表情一つ変えなかった。
「そのために我々は従属を選ぶ権利があります。己が不得手ならば治癒を得意とする者を選べば良いのです。あるいは薬草を持つことも可能です。影虎がそれをせずに命を落したのならば、それは」
 拳をきつく握り締める。
「影虎の咎です」
 誰の責任でもありません、とイナクタプトは告げた。
「そんなのって!」
 柊子が大声をあげる。すぐに我に返った柊子は、慌てて口元を押さえた。
 驚いたイナクタプト共々、影虎の様子を伺う。
 影虎は、静かに寝ていた。柊子がほっと息を吐く。
「……そんなのって、ひどいよ」
 小声で柊子は抗議した。戦士は使い捨て、そういうことだろうか。
「しかしそれが世界の掟で――」
 そう言いかけたイナクタプトは、柊子の変化に口を閉ざした。
 影虎を見つめていた柊子の瞳に、みるみるうちに涙が溢れる。やがて、ひとつ、ふたつと零れた涙が頬を伝いだした。
「ひどいよ……あんまりだよ」
 柊子が唇を噛み締めて、小さく肩を震わせる。
「誰かが、影虎が怪我したのを知ってて還したってことでしょ? ううん、知ってたんじゃない。怪我をしたから還したってこと、だよね?」
 あたし、と柊子は息を吸った。
「そんなの、許せない……」
 怒るような口調でそう言って、柊子は手の甲で涙を拭いた。
「柊子」
 イナクタプトは驚いていた。柊子が泣いている。怒りながら、泣いている。その理由がわからない――はずなのに、心のどこかで喜んでいる己がいたのだ。なぜ、と問うても答えは返ってこない。それなのに、不快ではなかった。
 どうしてだろう、心が温かい。
「……ありがとう、ございます」
「なんでお礼言うの? 変なイナクタプト」
 目尻に涙の余韻を残したまま、柊子が微笑む。
「そうですか?」
 イナクタプトの目が瞬く。
「そうだよ」
 くすくすと笑う柊子につられるように、その頬がわずかに緩んでいた。

 朝陽が昇る時間になると、客間の扉がけたたましく開かれた。座りながらうたた寝をしつつあった柊子とイナクタプトが同時に扉を見やる。そこには、少女の形をとり洗面器とタオルを抱えた蘭蘭の姿があった。
「影虎サマ怪我した、蘭蘭、看病する」
 そう早口でまくしたてた蘭蘭は、鼻息荒く影虎の枕元に座った。
「蘭蘭、どこにいた」
 イナクタプトが問う。
「源次郎、蘭蘭湯たんぽ代わりにした。蘭蘭、一緒に寝てあげたね」
 昨夜、掌サイズのパンダ姿になった蘭蘭は、ありがたくないことに源次郎のランニングの中に放り込まれたのだという。邪魔をさせまいという源次郎なりの気遣いだったのだろう。
「胸毛ちくちく、痛かったね。蘭蘭、がまんした」
 不快感を思い出したのか、蘭蘭が唇を尖らせた。少女姿で言われると犯罪のようだ。
「でも源次郎起きたね。仕事行った。蘭蘭、これで自由。イナ様も柊子も寝るよろし」
 後は蘭蘭やるね、と言って蘭蘭は洗面器にタオルを浸した。
「影虎サマ、タオルかえる。蘭蘭、やる」
 にこにこと、たっぷり水気を含んだタオルを絞らずに、蘭蘭は影虎の顔に勢いよくかけた。
 びしゃり、と水音がする。
 あっけにとられる柊子とイナクタプトの前で、濡れタオルを顔にかけられた影虎は、三途の川を渡りかけたという――。
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