まぜまぜダーリン

「おかーさん、が……?」
 柊子が影虎の箸先を凝視する。
「そうじゃ」
 影虎はなんてことのないように頷くと、白米を掻きこみ始めた。
 食事をしていたはずの柊子の手が止まる。ためらいがちに彷徨った視線は、どこも見ていないようだった。


召喚13:「戦士!? 源次郎」


 中川家の明かりが落ち、家人の誰もが寝静まった深夜。柊子の部屋のドアが音もなく開いた。扉の前で剣を抱き待機していたイナクタプトが瞼を明ける。そこに、パジャマの上にカーディガンを羽織った柊子の姿があった。
「ちょっと、いいかな」
 イナクタプトの返事を待たずに、柊子がイナクタプトの前に腰を下ろした。立ち上がろうと中腰の姿勢だったイナクタプトにも座るように促す。
「ちょっと、眠れなくて」
 柊子は呟いた。
 先ほど聞いた影虎の言葉が脳裏を巡る。

『わしを召喚したのは、トーコじゃ言うたんじゃ』

 怪我を負った影虎を手当てもせずに帰還させた召喚士。絶対に許せないと思ったその相手が――母だった。
 あれからずっと鉛が沈んだような感覚が胸にある。
「話して、いい?」
「私でよければ」
 イナクタプトは静かに頷いた。長い銀髪が月光に映える。顔に刻まれた陰影は深く、整った面立ちを際立たせていた。
「うん……」
 そう頷いたきり、柊子は口を開こうとしなかった。
 ただ、黙ってイナクタプトの前に座っている。立てた両膝を頼りなく抱き寄せて、顎を乗せる。
 迷っているのだとイナクタプトは察した。
 これが他の人間ならば気の利いた言葉のひとつもかけられるのだろう。生憎彼はそういったスキルはひとつも持ち得なかった。代わりに果てしない忍耐力だけはあったので、柊子が話し始めるのを焦れることなく待つことは出来た。
 夜の空気が冴える。
 遠く、虫の音。
 かすかな家鳴りまで耳に届く。
 万物が眠りについたが故の静寂。
 冷えるはずの空気もここだけは暖かいようだった。
「あの、ね」
 柊子はぽつりと呟いた。
「うちは、おかーさんいなくて。あたしがちっちゃい時からいなくて、だから、それは当たり前のことで、別に寂しくはなかったんだ」
 堰を切ったように柊子は話し出した。
「もちろん、おかーさんがいなくてヤなこといっぱいあったけど、でもおとーさんは頑張ってくれてたし、だから」
 だから、と柊子が膝を抱く力を強める。
「だから、聞いちゃいけないかなーって」
 なんとなくだけど、と柊子は付け足した。
 柊子は知っている。これまでの日々、源次郎が柊子に母不在の苦労をさせまいと努力していたことを。
 運動会、授業参観、母の不在がクローズアップされる日に源次郎は決まっていつも以上に陽気だった。持参した弁当の焦げた卵焼き、大きいだけのくずれたおにぎり。料理は里中さんに頼んだと言いつつ、それだけは源次郎が悪戦苦闘しつつ作ったものだと容易に知れた。
 あの武骨な大きさと不器用な味が好きだった。
「……おとーさん、傷つくかな」
 柊子は呟いた。
 必要があれば話すだろう。源次郎はそういう性格の男だ。
 そんな人間が、一切語ろうとしなかった存在――母。
 もう避けては通れない気がした。
 柊子が己の膝に顔を埋める。
「それは、やだなぁ」
「柊子」
 それまで黙って聞いていたイナクタプトが初めて口を開いた。
 優しくいたわるように名を呼ぶ。その間も、イナクタプトは迷っていた。
 何を言えばいいのだろう、この幼き主に。
 イナクタプトは言葉を探した。
 慰めに足るような優しい言葉が見当たらない。これが吟遊詩人なら湧き出るような歌で柊子を癒すだろうに、己に出来るのはただ愚直に剣を振ることだけだ。
 それでも、伝えたいことはあるのだ。
 自然、イナクタプトの手は動いていた。
 柊子の頭にそっと触れ、なだめるように撫でる。ぽん、ぽん、と拗ねた幼子をあやすように。
 イナクタプトの大きな掌の感触に、柊子が顔を上げる。驚きに見開かれた柊子の瞳と目が合い、見つめあうこと数秒、イナクタプトは我に返った。
「し、失礼を!」
「え、あ、うん!」
 イナクタプトが慌てて手を引っ込める。それでもまだ余韻が残っているような気がして、柊子の頬に赤味が差した。
「……申し訳ありませんでした……!」
 イナクタプトが深々と頭を垂れた。己の所業を心底悔いているようだ。
「あ、ううん、平気……」
 柊子は曖昧に頷いた。なにが平気なのかよくわからない。
 それからどちらからともなく正座に座りなおすと、揃って己が膝に手を置いて床を見つめ始めた。
 空間に満ちているのは先ほどと同じ沈黙なのに、なぜか気分が落ち着かない。心なしか体温も上がっている気がする。柊子は、もうどうやって話を続けて、どんな顔をしていればいいのかわからなかった。
「源次郎殿の、件ですが」
 その場の沈黙を破るように、イナクタプトが口を開いた。努めて平静を保とうとしているのだろうことはその表情から伺える。ともすれば普段通りのポーカーフェイスながらも額に汗が滲んでいた。
「彼は強い男です。何も心配することはありません」
 こほりと咳払いをひとつする。
 返答が来ない。
 ちらりと柊子を見ると、きょとんとした顔でイナクタプトを見ていた。
「柊子?」
 言葉が足りなすぎたろうか。しかしイナクタプトにはこれが限界だ。イナクタプトがどう弁明しようか思案し始めた矢先、柊子は満面の笑みを浮かべた。
「そうかな? そう思う? イナクタプトが言うんなら、きっとそうだよね」
 あーよかったと伸びをすると、そそくさと立ち上がる。次の瞬間には、柊子はドアの向こうにいた。
「しゅ……」
「ありがと、イナクタプト。おやすみなさい」
 答える間もなくドアが閉まる。
 後には、半端に手を伸ばしたイナクタプトだけが取り残されていた。

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