まぜまぜダーリン

 浴室に張った湯船の前で、柊子は深呼吸をひとつした。
 後ろには影虎とイナクタプト、その肩にパンダ姿の蘭蘭が乗っていた。イナクタプトの甲冑姿を見るのは久しぶりだ。もしかしたら、召喚して以来初めてかも知れないと柊子は思った。
「じゃ、いくよ」
 柊子が湯船にかき混ぜ棒を差し込む。それからVのラインをイメージして棒を動かすと、湯船に光が満ち始めた。
「おー、始まったか!」
 陽気な声に振り向くと、半分出来上がった源次郎が浴室を覗いていた。
「おとーさん!」
「せっかくだからな。見送ってやらぁ」
 ちゃんと行けるかどうだか怪しいしなとからかうように笑う。柊子はむっと拗ねてみせた。
「もう、すぐそうやってからかうんだから」
 そうこうするうちに浴槽の上には光の輪が出来ていた。影虎の帰還陣だ。間違いない。
「ほれ、柊子」
 先に帰還陣に乗った影虎が柊子に手を差し出す。
「うん」
 浴槽のふちに足をかけ、柊子はその手を取った。そして、光の中に足を踏み入れる。
「うわ……」
 暖かくも冷たくもない、不思議な感触だった。ゆらゆらと頼りないかと思えば、突き抜けて落ちることもない。
「なんじゃ、その棒持って行くんか」
 影虎が柊子の手にしたかきまぜ棒を顎で指した。
「う、うん。あったほうがいいかと思って」
 柊子が答える。その足元がぐらついた。
「かか影虎、手ぇ離さないで」
 足場の不安定さが心細い。柊子が影虎の手を掴んだ。
「何を言うとる。大丈夫じゃき。ほれ」
 影虎に引くように手を抜かれて、柊子はよろめいた。
「きゃ……」
「柊子」
 その肩をイナクタプトが抱きとめる。それでようやく柊子は人心地ついた。
「柊子」
 呼ばれて顔を上げる。源次郎が浴室に入ってきていた。
「気をつけてな」
 いつになく真剣な顔で、源次郎は告げた。
「? うん」
 そんなことを言う源次郎を柊子は初めて見た気がした。胸を過ぎるかすかな影を源次郎の声が払拭する。
「じゃー、イナさん影さん、後頼むわ! 柊子、迷惑かけんじゃねーぞ!」
 源次郎が上機嫌で手を振る。影虎は面倒そうに片手を挙げ、イナクタプトは律儀に頭を下げた。
「行って参ります」
「いってきまーす!」
「おう、行って来い」
 源次郎が大きく手を振る。その姿がやがて薄らぎ、遠のいて、ただの光になった。

 目を閉じて開いたら、次の世界。という具合にはいかないらしい。柊子達が光に包まれたのはほんの一瞬、次に現れたのは、あたり一面の闇だった。
 世界と世界の狭間のトンネルを抜けるように、魔方陣が移動している。暗く、けれどうねりを感じる場所だった。遥か彼方に見える光が、柊子達が飛び込んだ浴槽だろう。行き先の決まったエレベーターのように魔方陣は迷いなく移動していた。童話で読んだ魔法の絨毯みたいだと柊子は妙に感心した。
「柊子、源次郎殿に別れを」
 見えなくなる光を睨むように見据えながら、イナクタプトが告げた。空間の摩擦による風が絶え間なく銀髪を弄ぶ。風の軌跡を辿るように舞う髪が綺麗だと柊子は思った。
「やだ、大袈裟だよ。すぐに帰ってくるのに」
 柊子が笑っても、イナクタプトは表情を崩さなかった。
「源次郎殿は最後まで言いませんでした。二つの世界を流れる時は違うのだと」
「え……?」
 柊子の笑みが凍る。イナクタプトは何を言おうとしているのだろう。柊子の不安を肯定するかのように、イナクタプトは頷いた。黄金色の瞳が柊子を覗き込む。
「この世界の大陸にも時差が生じるように、異なる世界同士には異なる時の流れがあります。我らの世界と柊子達の世界では、特に大きい」
「大きいって……どのくらい?」
 柊子がイナクタプトを見上げた。イナクタプトの瞳が迷う。
「まどろっこしい説明しよって」
 馬鹿らしいと影虎が鼻息を荒げた。
「ええか、柊子。わしらと源次郎は同い年じゃ。三人で組んどった。これでわかるじゃろが」
 己を指で指しながら影虎は断言した。その指も顔も、源次郎より遥かに若い。どう見ても二十代後半だ。四十代の源次郎とは似ても似つかない。
 柊子の目が見開いた。
 言われた言葉が咄嗟には理解できない。
「う……そ」
 折角の土日なんだと異世界へ行くのを促したのは源次郎だ。小旅行にでも行く気分で行けばいいと、そう言った。だからこそ柊子も決意したのだ。
 それが。
 柊子がイナクタプトを見た。影虎の言葉を否定して欲しいとその顔に書いてある。イナクタプトの額に、わずかな汗が滲んだ。
「本当です。恐らく、柊子がトーコ殿に再会を果たし、戻って来る時にはもう……」
「うそ!」
 柊子は叫んだ。慌てて、飛び込んだはずの光の入り口を見上げる。
「おとーさん!」
 光はもう小さく消えかけていた。入り口が閉じようとしている。
「おとーさん、おとーさん!」
「危険です、柊子!」
 イナクタプトが駆け出そうとする柊子を抱き止めた。
「いや、離して!」
 少女のどこにこんな力が眠っているのだろう。イナクタプトが驚くほど、柊子は力の限り抵抗した。必死に光に向けて手を伸ばす。
「おとーさん!」
 それでも、男の力には及ばない。イナクタプトの腕の中で暴れていた柊子の力が、だんだんと抜けていった。
「離して……」
 声に涙が混じる。
 確かに母に会いたいとは思った。イナクタプトの郷里も見たいと願った。
 けれどそれは、源次郎を一人置いていくためではない。絶対に違う。
「おとーさん……」
 柊子が力なく呟く。その指の先で、光は閉じた。

 光が収束するのを見届けて、源次郎は居間へと足を運んだ。
 歩くのにあわせて家鳴りがする。
 己以外誰もいない我が家はこんなにも静かだったのかと驚いた。今までは話し声に掻き消されていた音が、ひとつひとつ響いた。慣れた手つきで台所から焼酎を持ち出し、盃に注ぐ。その音すら耳につく。
 居間のテーブルの決まった場所にいつもの習慣で座る。ちびりと盃に口をつけて、源次郎は天井を仰いだ。
 冬子、柊子がそっちに行ったぞ。
 柊子、母さんは綺麗な人だ。
 俺の自慢の娘だ。俺の愛する妻だ。
 お前達の再会を、俺は心から信じている。


【召喚14・END】
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