まぜまぜダーリン

 とても悪い夢を見た気がする。
 朝の光の中で目を覚ました柊子は、そう思った。
 詳細は思い出せない。ひどく悲しいような、胸がつぶれるような、そんな感触だけが残っている。
「あー……」
 確か父に関わることだったと思い出しかけて、額に手をかける。その指の隙間から見える天井が、己の部屋のものと違うことに気づいて、柊子は飛び起きた。
 中川家は和風建築だ。柊子の部屋も畳だし、天井には剥き出しの梁が見える。
 けれど今しがた自分が寝ていたのはベッドだし、床はピカピカの大理石だ。繊細な金細工が施された窓枠に、蜀台を始めとする西洋風の調度品の数々。もちろん、柊子に見覚えがあるはずがない。
「あ、あ……」
 事態を理解すると共に、柊子の口から声が漏れ出た。
 あれは夢ではなかった。
 自分は異世界に来て、それで、つまり。

 ここは、イナクタプトの家なのだ。


召喚15:「影パパ・イナママ」


 異世界に行くからには、柊子とて一応の覚悟はしていた。
 ゲームだって野宿が基本だ。きっと自分もそうなるだろうと。
 そんな覚悟を持った柊子達を乗せた帰還陣が降りた場所は、荒涼とした砂漠だった。暗雲が立ち込め、雷雲が轟いている空。何年も雨は降らずに大地は乾ききり、風が吹くたびに砂が舞った。
 寂しい場所だと柊子は思った。
 決して明るくはないだろう先行きを思った時、影虎が言ったのだ。
「とりあえず、家に行くかの」
 耳を疑うどころの話ではない。否、イナクタプト達の世界に来たのだから、家があるのは当然なのだ。なのだが、しかし。
 奇妙な顔をしたのは、イナクタプトも同じだった。
 どうせ近いのだからと柊子の片手を引いて影虎が訪れた先は、洋風の屋敷だった。三階建てほどの洋館は至る所に手入れが行き届いているのが一目で知れた。庭の薔薇に似た植物もよく手入れされている。門から玄関へとゆるやかな小道が続き、その脇にある噴水に置かれた彫像は、水瓶を持つ女性だった。
 確かに異世界に来たはずだが、これはまた別次元の異世界だ。
 豪奢な門を柊子が呆然と見上げる。唖然とすること数秒、影虎が硬直する柊子に気づいた。
「なんじゃ、柊子」
「あ、えと……」
 着流しの影虎とアンバランスな洋館を見比べる。これが影虎の家なのだろうか。柊子が疑問を口にする前に、イナクタプトが言った。
「これは私の家だ」
「細かい男じゃのう」
 どうせ隣じゃろが、と勝手知ったる勢いで、影虎が門を開けた。勢い、門扉に絡んで咲かせられていた花が散る。
「ただいまじゃー!」
 意気揚々と叫んで入る。まるで本当の息子のようだ。唖然とする柊子の後ろで、イナクタプトが静かに嘆息した。
「柊子」
「え?」
 立ちすくむ柊子に、イナクタプトが声をかけた。
「トーコ殿の下へ向かうのにも準備が必要になります。今夜はこちらで休んでください」
 それで柊子は、ここで寝る羽目になったのだ。


「おはようございます、柊子さん。よくお休みになれましたか」
 侍女に連れられ食堂に行くと、穏やかな笑みで柊子を出迎えたのは、淡い金髪の女性だった。淡い水色のドレスが白い肌によく似合っている。手にしたティーポットを傾けると、紅茶にも似た液体がカップに注がれた。
「こちらの世界のお茶ですの。お口に合うかしら」
「あ、どうも」
 柊子が差し出されたカップを受け取る。カップを傾けると、甘い花の香りがした。
「……おいしい」
 ほっこりと温かく優しい味だった。柊子が思わず感想を漏らすと、女性は嬉しそうに微笑んだ。柔らかな笑みが母親を連想させる。なぜか柊子の胸が高鳴った。
「こちらでしたか、柊子」
 一度客間に足を運んだらしいイナクタプトが姿を見せた。さすがに自宅にいるだけあって、服のサイズはぴったりだ。緩やかなシルエットの普段着だが、イナクタプトによく似合っていた。気品すら感じられる。柊子は、家での寝巻きにと源次郎のジャージなどを渡していたのが少し申し訳ないような気分になった。
 柊子の姿を見て安堵したのか、イナクタプトは柊子の傍らにいた女性に目をやった。視線を受けた女性が目を細める。
「おはようございます、イナクタプトさん」
「おはようございます、母上」
 柊子はお茶を吹き出しかけた。無理矢理飲み込んだ茶が気管に入り、こらえようのない咳が込み上げる。
「柊子、大丈夫ですか?」
 こんな時にも律儀にイナクタプトは駆け寄った。放っておいて欲しい。
「だ、だいじょ……」
 むせながら、柊子は顔をあげた。目尻に涙が溜まっている。その視界に、妙齢の女性――イナクタプトの母親?――が映った。
 若い。
 どう見てもイナクタプトの姉にしか見えない。
 柊子の顔色を見てとったのか、
「後妻ですの」
 にこにこと笑いながら、イナクタプトの母は告げた。
「イナクタプトさんのお母様は、イナクタプトさんが五つの時にお亡くなりに。わたくしは、イナクタプトさんが十二の時に参りましたの。わたくしが十六の時でしたわ」
 ごくり、と音を立てて柊子は茶を飲み込んだ。年が四つ離れているだけの母親。互いに敬語なのもわかる気がする。
「おかーん! メシー!」
 ともすれば気まずくなりそうな空気を破壊しつつ現れたのは影虎だ。どこまでも自分の家のように扉を押し開けてやって来る。メイド達が無言で影虎が残した泥だらけの草履の跡を拭いていた。こちらもまた、手馴れている。
「まあ、影虎さん、いらっしゃい」
「あー、腹減ったわ。おかん、メシ!」
「あら、お母様は? どうされたの?」
「親父と戦っちょる」
 影虎の言葉が終わらぬうちに、窓の向こうに鋭い閃光が走った。追って爆風と音が庭の木々を押し倒しながらやってくる。
「きゃあ!」
 渦巻くような土埃に、柊子が思わず悲鳴を上げた。頭を抱え、目を閉じる。
 予期したはずの衝撃はこなかった。
「あれ……?」
 柊子がおそるおそる目を開ける。
 衝撃はテラスの外で止まっていた。土煙や木々が円形を描いて屋敷を避けている。
「災害用の障壁ですの。多少のことには動じませんわ」
 柔らかにイナクタプトの母が微笑む。
「気にしないで下さい。いつものことですので」
 淡々とイナクタプトが告げる。
「で、今日はどうなさったの?」
 イナクタプトの母の問いに、影虎が出されたパンにかじりつきながら、忌々しげに吐き捨てた。
「まーた朝帰りしよったんじゃと、あの親父が。おかんが朝からキレてたまらんわ」
 そういえば閃光の合間に男の悲鳴が聞こえる気がする。
「た、大変だね」
 柊子がそう言った時だった。
 けたたましい音と共に、何かが障壁に張り付いた。一際大きな音が響く。真っ黒で大きな影――源次郎ぐらいはあるだろうか――は、人型をしている。
 柊子が驚きに目を見張る。
「なななななに?」
 動揺する柊子をよそに、イナクタプトと影虎は朝食を続けていた。本当に珍しくもないらしい。
「親父じゃ」
 影虎が呆れたようにパンを齧った。
「そうです、柊子」
 イナクタプトがカップを傾ける。
「え、え、親父って、影虎のおとーさん?」
 驚く柊子の目の前で、ゆっくりと障壁が溶けていった。同時に外の風が室内へと入り込む。
Copyright 2008 mao hirose All rights reserved.