まぜまぜダーリン

 黒い塊と化した影虎の父らしき影が、焦げた匂いを漂わせながら、スローモーションで室内へと倒れ込む。柊子は気づいた。その胸に足を乗せ、立っている人間がいる。
 ぴんと伸ばした背筋に袖長の着物がよく似合っている。わずかに翻った裾から足袋が覗いた。乱れることなく結い上げられた黒髪に映える金の簪、きりりと巻いた鉢巻に、手にした薙刀。男を見下ろす視線は軽蔑と侮蔑が入り混じり、年季を感じさせる額には青筋が浮いていた。本来は整っているであろう唇も怒りに引きつっている。濃く暗い紅が白い歯と好対照だ。
 説明されなくてもわかる。これが影虎の――
「この阿呆が」
 柊子が息を呑むと同時に、女が忌々しげに吐き捨てた。
「いや、まて誤解だ。トーコ殿に召喚されておってな」
 足蹴にされた男が必死に弁明する。筋肉質な体躯に、影虎と同じ着流しを着ているはずだが、あちこちが破れている。腕にも背にも、額にも、全身のいたる箇所に古傷が刻まれていた。それが勇壮さを物語るのか、敗北の名残なのか、柊子には判別ができない。
 トーコの名を聞いた途端、女のこめかみがひくりと動いた。
「ほう」
 同意の頷きにも怒りが満ちている。薙刀を握る手に一層力が入る。細い手に浮き出た血管がそれを証明していた。
 女が唇をわなわなと震わせながら、笑みの形を作る。頬に刻まれた皺が、怒りの深さを伺わせた。
「どうせ言い訳するならもっとましなことをお言い。うちの咎はもう、影虎さんどすえ」
 なおも弁明しようと口を開けた男の眼前で薙刀が一閃する。落雷を呼び込んだその攻撃は、正確に男を切りつけ、焼死体さながらに丸焼きにした。稲光と轟音が過ぎ去ると、あたりに焦げ臭い匂いが立ち込める。
 黒い物体と化した影虎の父はなにも言わない。息をしているのかすら怪しいが、イナクタプト達が動じないところを見ると生きているのだろう。そうであってほしいとの願いも込めて、柊子はそう思うことにした。
 荒々しく鼻息を吐いた女が顔をあげる。ぴくりと眉間に皺が寄った。
「影虎さん、ああた、また人様のお宅でご飯なんぞ」
 日本で言うところの京言葉に近い、硬質な響きがあった。
「おかんはええっつったわ」
 影虎が顎でイナクタプトの母を指す。その姿を視界に映した途端、影虎の母は豹変した。
「あらま、こんなところでお逢いするなんて」
 ころりと笑ってみせる。つい先ほどまで焔が立つほどの殺気を放っていたのが嘘のようだ。
 その様子に動じることなく、イナクタプトの母は微笑んだ。
「お久しぶりです、てうさん」
「お久しゅう、エリーナさん」
 てうが掌を組み腰を曲げてお辞儀する。てうにエリーナのような可憐さはないが、凛とした佇まいの美しさがあった。
「はあ」
 聞こえよがしな溜め息をついたのは影虎だ。エリーナと話し始めたてうを疎ましげに眺める。呆れたような表情だった。
「まーた始まりよった」
「なにが?」
 独り言のつもりだったのだろう。柊子が聞きとがめたことに、影虎は面白くなさそうな顔をした。サラダから無造作にスティックの野菜を手で取ると、ぼりぼりと齧り始める。
「お袋に言わせるとコイツのおかんは肝が座っちょるんじゃと。若いのに大したもんだと褒めるまではええんじゃが、真似をしようとするのがいかん。気持ち悪いんじゃ」
「真似って」
「いつも笑っちょる。恐ろしいわ。コイツが隣に越してきてから、わしの呼び方まで変えよった」
 そういえば、と柊子は回想した。てうも影虎を「さん」付けで呼んでいた気がする。エリーナが言うのとは随分ニュアンスが違ったけれども。
「じゃ、影虎、なんて呼ばれてたの?」
 当然の疑問を柊子は口にした。恐らく呼び捨てだろうと察しながらも、とりあえず聞いてみる。
 あっさり答えるだろうと思われた影虎は、口を開こうとしない。くわえたスティックを所在無さげに振るばかりだ。
「ねえ」
「影ちゃま、です」
 イナクタプトが代わりに答える。なぜ余計なことを言うのかと、影虎の頬がひくついた。
「影ちゃ……」
 最後まで言い切れずに柊子は吹き出した。そう呼ばれている影虎が、どうしても想像できない。
「笑いすぎじゃ」
 口元を手で覆い、笑いを噛み殺す柊子を影虎がたしなめた。
「ご、ごめん、影ちゃま」
 柊子が笑いながら詫びた。目尻に涙まで溜まっている。
「おい」
「口に気をつけろ、影虎」
 影虎の横柄な物言いに、イナクタプトが釘を刺す。影虎が面白くなさそうに黙り込んだ。
「どちらさんやの?」
 てうは柊子に初めて気づいたようだった。視線を感じた柊子が、慌てて立ち上がる。
「あ、初めまして。あの……」
「私の召喚主です」
 イナクタプトが後を引き受けた。
「おやまあ」
 てうが物珍しげに柊子を見る。なんだか品定めされているようで、柊子は少し俯いた。
「可愛らしい主さんでしょう?」
 エリーナが嬉しそうに告げる。
「ほんまに。かわいらしいおすなぁ」
 若い頃の自分にそっくりだとてうが頷いた。そっぽを向いた影虎がこれ見よがしに舌を出す。柊子はひやりとしたが、てうは意に介さなかった。どこから来たのかなどの質問を矢継ぎ早に柊子に投げかける。
 てうの質問に答える柊子を見ながら、イナクタプトは複雑な表情を浮かべた。こちらの世界に来てから、柊子は普段と変わりないように見える。源次郎との別れは柊子に衝撃をもたらしたはずなのに、その素振りを見せるどころか、時折笑顔すら覗かせる始末だ。
 けれど。
 初めてこの世界に訪れ、あの乾いた砂漠に降り立った瞬間、柊子は膝から崩れ落ちた。俯いた先の砂地を濡らしたのは、雨ではない。
 それはほんの一瞬のことで、影虎などは単に着地のバランスを崩しただけだと思ったようだ。
 だが、イナクタプトはそうではないことを知っている。
 イナクタプトは改めて柊子を見つめた。てうとエリーナの間で笑っている、その表情に翳りはない。
 イナクタプトが静かに拳を握り締める。影虎だけがそのことに気づいていた。


【召喚15・END】
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