世界には果てがある。
かつて、柊子の世界でもそう提唱されていた。海は彼方へと落ち、地面は象が支えている。そんなことを言い出したのは誰だったか、最早定かではないが、古の人々が残した絵画でその思想を垣間見ることが出来た。
海が滝となり零れ行く、その先はどこだったか、柊子はまるで覚えていない。
宇宙の中にぽっかりと浮かぶ象の優しげな瞳だけがやけに印象に残っている。
だが、イナクタプトが指差す先、世界の果てだと示された場所には、はっきりと境界が見えた。線ではない。唐突に世界がそこで終わっている。ぽっかりと口を開けて佇む虚無。それこそが世界の終わる場所なのだと、柊子は理解できた。
空を覆っている黒雲の黒さも、そこに佇む闇には及ばない。無というものがあるとすれば、まさしくあの空間のことを言うのだろう。雷鳴も黒雲も、柊子達が立っている場所から続いているはずの地面すら、ある地点を境に唐突に消えていた。
その先には、なにもない。
時折、雷光が轟く。その光すら、世界の端で途切れていた。
「なに、あれ……」
柊子が呆然と呟く。
イナクタプトが表情を崩さずにもう一度告げた。
「世界の果てです、柊子」
「果て、って」
「終わりの場所じゃ」
影虎が顎をさする。
「大分近づいたのう」
無感動に感想を述べて、町を振り向く。
「近づいた……?」
疑問を口にする柊子の足元で、砂が風に運ばれる。その先の虚無に飲み込まれているようでもあった。
「侵食されているのです、徐々に」
以前はあの先にも町があったと、イナクタプトが指差した。
「あの闇の中心に、獣がいます。それが世界を蝕んでいるのです」
柊子の視線がイナクタプトの指先を辿る。
稲妻が走る。振動が地面を伝わって、かすかな響きを伝えた。
世界の果てと呼ばれる、その場所。柊子の母がそこにいると言う。
目をこらすようにしても、黒雲に覆われた大地には影が落ちているだけで、誰の姿も確認できなかった。
時折轟く雷鳴すら押されるように、じわりと虚無の侵食が広がっているようにも見える。
「我らは異界を漂う流浪の民」
食い入るように見入る柊子の隣で、イナクタプトが口を開いた。
そのフレーズは、以前にも聞いたことがある。
確か、イナクタプトを召喚した時だ――柊子は顔を上げた。イナクタプトは世界の果てを見据えていた。長い銀髪が乾いた風に揺れる。
「罪を贖うその日まで、安寧の日々は訪れません」
「罪……?」
「わしらは罪人の子孫なんじゃと」
だるそうに影虎が首筋を掻いた。
「もう先祖が何をしたのかなんて誰も覚えとらん。阿呆らしいにも程があるわ」
「それでも我らには罰が与えられています」
イナクタプトは厳しい眼差しで柊子に向き合った。
「頬の紋様は重ねた罪の証です。贖罪を終える日まで消えることはありません。子々孫々、永久に受け継がれます」
「頬の紋様って。だって、それは……」
柊子は言いよどんだ。
イナクタプトや影虎の頬に刻まれた紋様。あれは契約印だと言われた。それがそのまま召喚にも帰還にも使える紋様なのだと。
それ以上に意味があるのか。
「で、でもイナクタプト達は普通に暮らしているんじゃないの?」
エリーナ達の館でのことを思い出す。少なくとも柊子には、それなりに楽しくやっているように見えた。突然、罰だ罪だと言われてもピンとこない。
「我らには己が為に剣を振るうことは許されていません」
イナクタプトが静かに答える。
「……え……?」
ごう、と風が吹いた。柊子の髪を弄び、吹き抜けた風が世界の果てに吸い込まれる。
見えるはずのない風の終わりを、柊子は確かに感じた。
柊子が虚無を振り返る。
侵食を続ける世界の端。
世界を食い続ける獣に、剣を持ち、戦えるはずの人々。
「自分の為に戦っちゃ、いけないの……?」
「私欲で剣を持てば、獣の力が増します。我らの咎も」
「堂々巡りっちゅーことじゃ」
影虎が大儀そうに欠伸した。
「あいつを倒そう思うたら、あいつの力が強うなる。おまけにこっちの咎とやらは増えて、いつまでも呼び出しが終わらん。異世界で他人の為にのみ戦うんじゃ」
「じゃ、じゃあどうすれば……」
「主の命ならば良いのです、柊子」
イナクタプトが言った。
「あの獣を倒せと命じられれば、我らは剣を持つことを許されます」
それもそうだ。柊子は安堵した。
「なんだ、そっか」
柊子が胸を撫で下ろす。その様子を見た影虎が面白くなさそうに息を吐いた。がしがしと音がしそうな勢いで首筋を掻く。
「わかっとらんのう」
「なにが」
むっとした柊子の額にくっつきそうなほど、顔を近づける。それから影虎は一言一言わざとらしくゆっくりと忌々しげに言葉を吐いた。
「召喚士から見れば、わしらの世界なんぞ知ったことじゃないわ。チカラを他人の為に使う阿呆はおらんし、いつ終わるかもわからんことに付き合う馬鹿もおらん」
青ざめかけた柊子の肩に、イナクタプトが手を置いた。なお威圧するように覗き込む影虎から遠ざけるように距離をとらせる。その上で、世界の端を指差した。
「けれど、トーコ殿はあそこにいるのです」
果てから流れてくる風がイナクタプトの銀髪をさらう。風に弄ばれる髪の合間から見える表情は、微笑んでいるようにも見えた。
「彼女は我らが光。我らの誰もが彼女の名を知り、そして、呼ばれることはこれ以上ない誉です」
イナクタプトが告げるその言葉。誇らしいような表情も一緒に、柊子の中に入り込んでいく。
母に会う。どこかで身構えていた部分があったはずなのに、イナクタプトの言葉はすんなりと柊子の心に響いた。
おかーさんは、人にこんな表情をさせる人なんだ。
柊子は嬉しいようなくすぐったいような気分になった。
「あれは単なる阿呆じゃ」
微笑みかけた柊子の前で、影虎が毒づく。イナクタプトの表情がすぐさま厳しいものへと変わった。
「なんだと、影虎」
「阿呆じゃから阿呆と言ったんじゃ」
イナクタプトが剣の柄に手をかける。柊子が止めるのは、間もなくのことだった。
それは十数年前のある日。柊子が生まれて間もない頃のことだった。
中川家に訪れた二人の剣士。イナクタプトと影虎の話を、柊子の母、トーコは黙って聞いていた。
その日は生憎の雨で、今日と同じく雷鳴が轟いていた。
誰一人口を開かない、その無言の間を埋めるように、雨が激しく窓を叩いた。
遠からず世界が滅びる。
だからどうしろとは誰も言わなかった。
源次郎も何も言わなかった。
トーコは静かに手に抱いた我が子を見つめた。
世界が滅びる。
それは、愛した人の故郷だ。
源次郎とトーコが出会い、過ごした思い出の地でもある。
世界が滅びる。
私にはそれを止める力がある――
トーコがわずかに唇を噛んだ。そうでないと泣き叫んでしまう。どうして自分なのかと、誰かを責めそうだった。
もう関係のない世界だと突っぱねることもできた。
それをしなかったのは、源次郎の背がわずかに丸まって見えたからかもしれない。
淋しそうだと、トーコは思った。
剣を持つことが許されているなら、源次郎はすぐにでも向かっただろう。そういう気性の人だ。
許されなくとも向かっただろう。
今、それをしないのは、トーコと柊子の為だった。
トーコには、それが痛いほどわかった。わかったからこそ、心は決まった。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、トーコは柊子の頬を撫でた。
源次郎と柊子。
トーコにとって、どちらも大切な存在だった。
「ごめんね……しゅーちゃん」
涙を零しながらトーコが立ち上がる。何か言いかけた影虎を、イナクタプトが制した。その顔にも苦渋が滲んでいた。
「ごめんね……源ちゃん」
ふらふらとおぼつかない足取りで、トーコは源次郎に歩み寄った。
その手に柊子を託す。
「しゅーちゃんを、お願い」
笑いとも泣きともつかない表情でそう告げると、トーコは一歩退いた。
雷鳴が轟く。
風に揺らいだカーテンが大きくはためく。
小柄なトーコの体を包んだと思われた瞬間、トーコの体は消えていた。
かの地で、獣と戦う為に。
それは十数年前のこと。
赤子であった柊子が知るはずのない、けれど体に刻み込まれた記憶だった。
【召喚16・END】