まぜまぜダーリン

 二度ほど鼻を啜り上げて茶を口にすると、蘭蘭はもう泣かなかった。高ぶった感情が体を変化させ、巨大パンダと化したのはつい数分前のことだ。また室内から天を仰ぐ羽目になるのかと危惧したのも束の間、イナクタプトの家は頑丈だった。弓なりに天井が軋み、蘭蘭の体躯に部屋が歪んでも、破れることはなかったのである。
 中川家、否、柊子達の世界とは建築材が違うのかも知れない。
 柊子はそんなのんびりした感想を抱いた。
 部屋に嵌る格好になった蘭蘭は、何度か壁を破ろうと試みたが、これも敵わなかった。暴れる爪先で装備の山は砕け散り、エリーナの心遣いは砂塵と化した。部屋に怒号にも似た嵐が吹き荒れる。柊子が無事だったのは、単なる偶然だろう。もしかしたら、先程鳴らした幸運のペンダントの恩恵かもしれなかった。
 そして同じく難を逃れたテーブルからティーセットを拝借し、お茶を入れ、お菓子を鼻先にちらつかせると、蘭蘭はようやく拳を収めた。鼻息を荒くしながら少女姿に戻ったのは、お腹が空いたせいだろう。
「しゅーこ、いいあるじ?」
 クッキーにも似た菓子をかじりながら、蘭蘭はぽつりと呟いた。ティーカップを手にした柊子が首をかしげる。
「うーん、どうだろう」
 イナクタプトが不満を漏らしたことはないが、影虎に言わせれば、万死に値するレベルの使えない主らしい。今もそう思っているんだろうかと柊子はふと淋しくなった。
「アイツ、蘭蘭、大キライね」
 蘭蘭がカップを握り締める。わずかに入ったヒビは、瞬く間もなく自己修復された。そういう魔法がかけられているのだろう。中に注がれた液体が平穏を喜ぶかのように煌いている。
「あいつ……?」
「前のあるじ」
 怒りをたぎらせるように蘭蘭の瞳に殺意が滲んだ。
「どっかの国の魔術師だったね。王様倒して、自分が王になったあるよ。たくさんたくさんみんなからお金や食べ物とって、まだ"ぜー"が足りない言ったね」
 ぜーとは税だろうか。柊子は考えた。
「あいつ、イナ様呼んだ。逆らう農民達斬れ言ったね」
「それって」
 イナクタプトが良しとするとは思えない。柊子には信じられなかった。
 ああ、けれど。
 いつか誰かが言っていた。
 呼ばれた側が正義とは限らない。そして、
「イナ様、斬った」
 ――主の命令は、絶対なのだ。
 圧政に呻く農民達。生きるために慣れぬ武器を持ち、己が妻子の為に立ち上がる。それを斬れと命じられたイナクタプト。
 迷わなかったはずがない。柊子は躊躇うイナクタプトの姿を見た気がした。しかし、それでも。
 イナクタプトは、剣を抜いた。
 それが己の定めだと承知しているから。
 焼かれるような苦悶の中、剣を振るう。それすらも、課された罰なのだと。
 無念の涙も手に伝わる肉の感触も、曲げられた信義すら、イナクタプトに向けて吐かれた呪詛となる。
「イナ様、イタイイタイ心が泣いてた。蘭蘭、ずっとそれ聞いてた。だから……!」
 蘭蘭が叫ぶ。
 従属と主は心が繋がっている――。苦しみすら分かち合う、対のもの。
 それでも、蘭蘭が武器を手にしたのは、自分のためではないだろう。柊子には容易に想像がついた。
 心底イナクタプトが好きなのだ、この娘は。
「あれから、イナ様、心閉ざしてる。蘭蘭、イナ様の気持ち、わからない」
 再び蘭蘭の漆黒の瞳から涙が溢れ出した。おぼろげな感情が伝わることはあっても、以前のように明確にはわからない。そして召喚地に蘭蘭を呼ばなくなったことが、はっきりとした拒絶の意思を表しているように思えた。
「蘭蘭ちゃん」
 柊子は蘭蘭の肩に手をかけた。自分でも驚くほど優しい声だ。
「大丈夫。イナクタプトは、怒ってなんかいないよ」
 柊子の言葉に蘭蘭は顔を上げた。真っ赤になった瞳が柊子を見上げる。
「ほんとに?」
「本当に」
「蘭蘭、わからない。しゅーこ、なんでわかる? 心、つながってるか?」
 素朴な問いに柊子の目が瞬いた。困ったような笑みが顔に広がる。
「う、うーん、つながってはないんだけど」
 なぜだと聞かれると返す言葉もない。
 それでも、柊子には確信があった。
「怒ってないのは、わかるよ。だって」
 イナクタプトと過ごした日々が脳裏をよぎる。いつでも柊子の傍にいて、お節介とも思えるほど世話を焼いてくれた。
 あたしも、ずっと見てた――だから、知ってる。
 柔らかな笑みと共に告げられかけた言葉は、しかし、形作られることはなかった。
「柊子、失礼します」
 ノックもそこそこにイナクタプト本人が部屋に入ってきたのだ。
「イ、イナクタプト、どうし……!」
 慌てたのは柊子だ。慌てる必要などどこにもないのだが、傍にあったカップを倒すほどに狼狽した。
「物音がしたので。しばらく様子を見ましたが、出てくる気配もなく、何かあったのかと――柊子?」
 顔を火照らせ、下を向く柊子に、イナクタプトが怪訝な顔をした。
「どうしました? 具合でも……」
 律儀に膝をつき、覗き込もうとする。近づく吐息と銀髪の揺れる気配に、柊子は慌てて立ち上がった。
「だだだ大丈夫! なんでもない!」
 理解しがたいという表情をしたイナクタプトの視界に、再び装備の山に潜り込もうとしているパンダ姿の蘭蘭が映った。表情を変えることなく、イナクタプトが無造作にパンダを掴む。掌サイズのパンダは、わたわたと抵抗しつつもあっさりと主の手中に納まった。
「蘭蘭が、なにか」
「ううん! 違うよ!」
 柊子は勢い良く首を振った。
「しかし、これは……」
 イナクタプトが部屋に視線を一巡させる。ゴミと化した装備の山が、カラカラと崩れ落ちる。
「あ、うん、いいんだ、別に」
 柊子が傍らにあるかきまぜ棒を掴んだ。
「エリーナさんの気持ちはすごく嬉しいんだけど、あたし、これで行こうと思って」
 柊子が自分の服を示した。柊子の世界から着てきたままの、どこにでもあるありふれた普段着だ。
 イナクタプトの視線を感じた柊子が俯く。どことなく気恥ずかしい。
「別に、なにか特殊な力があるってわけじゃないんだけど、でも」
 柊子はかきまぜ棒を握る手に力を込めた。エリーナが用意してくれた装備品に比べれば、どうしたって見劣りするかもしれない。
「これ、おとーさんが誕生日に買ってくれた服なんだ」
 あとは、と柊子が告げる。
「おかーさんが残してくれたこの棒があれば、いっかなーって」
 柊子がかきまぜ棒を大事そうに抱いて微笑む。イナクタプトもつられて微笑みかけた瞬間、柊子はイナクタプトの肩に乗る蘭蘭を指差した。
「蘭蘭ちゃんも一緒に行こうね」
 イナクタプトの表情が見る見るうちに曇った。
「柊子、それは……」
「ええじゃろが、そんぐらい」
 開け放したドアにもたれた影虎が、欠伸を噛み殺していた。
「女の準備に時間がかかるのは知っとるが、男ががたがた言うのは見苦しいわ」
 イナクタプトの眉間に皺が寄る。
「なんだと」
「ほんまのことじゃろが」
 額の届きそうな距離で睨みあう。否、ついているのかもしれない。
「影虎」
「なんじゃ柊子」
 影虎の着流しの裾を掴む柊子に、影虎が視線を寄越した。威嚇にも似た口調が、早く戦いたいとせがんでいる。柊子は、一瞬息を詰め、けれどはっきりと告げた。
「影虎は留守番だよ」
「な……」
 信じられないのだろう。絶句する影虎の鼻先に柊子が指を立てる。
「こないだ怪我したばっかりじゃない。だめだよ!」
 びきびきと音がしそうな勢いで、影虎のこめかみの血管が膨れ上がった。毛穴という毛穴が開きそうなほどの怒気が発せられる。吊りあがるように笑みを描いた唇は、思い切りひきつっていた。鞘から抜かれた愛刀が危険な光を放つ。
「しゅ、う、こおおおお」
「脅してもダメ。あたし譲らないんだからね!」
 ぷいと影虎に背を向けて、柊子は言い切った。これだけは言いたかったのだ。達成感に小鼻を鳴らす。
「お……」
 なおも追いすがろうとした影虎の肩を、イナクタプトが掴んだ。
「男ががたがた言うのは見苦しいと言ったな」
 言われた言葉に影虎の頬がひきつる。イナクタプトは平然と告げた。
「その言葉、お前に返す」
 それが止めの一言になった。振り返り様、影虎が刀を振るう――もちろん、イナクタプトに向けて。イナクタプトが剣で受けたのがまた気に食わなかったようだ。一気に渦巻いた闘気が部屋中を吹き荒れた。
「ちょ、ちょっと影虎!」
 イナクタプトの肩から吹き飛ばされた蘭蘭を柊子が抱きとめる。抗議の声をものともせず、影虎は刀を構えた。イナクタプトも無言で剣を構えた。受ける気だ。
 柊子の血の気が引く。
「わ、わかったから!」
 慌てて柊子が叫んだ。
 が、影虎が引く気配は微塵もない。
 自棄になったように、柊子は再び叫んだ。
「もう、連れて行けばいいんでしょ!」
 ちらりと横目で柊子を見た影虎が、満足そうに目を細める。
「初めからそう言えばええんじゃ」
 世話を焼かせよって、と柊子の額を指先で弾く。それすらも、イナクタプトは面白くなさそうな顔をした。
「影虎」
 抗議を滲ませたイナクタプトの声に、影虎はうんざりした。
「なんじゃ」
「血が滲んでるぞ」
 密やかに囁かれた言葉は、影虎の予想に反したものだったが――己の肩口に滲み始めた血を見た彼は、主に気取られぬよう、開き始めた傷口に手をやった。


【召喚17・END】
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