まぜまぜダーリン

 扉の残骸を乗り越えると、獣の咆哮が耳に届いた。
 思っていたより、ずっと近い。まだ距離はあるはずなのにと柊子は驚いた。
「ねえ、これが獣の声?」
「いいえ」
 イナクタプトが頭を振る。
 その返答を、柊子は一瞬理解できなかった。
「え?」
 しかし、現に、鳴き声は聞こえている。
「だ、だってこんなにはっきり聞こえてるんだよ?」
 幻聴ではないと、柊子は訴えた。
「ほら、だんだん大きくなってくるし、なんかポタポタって音まで」
 まるで涎の垂れる音だ。荒く激しい息遣いまで聞こえてくる。生臭い口臭が鼻をついてたまらない。
「音、まで……聞こえて……」
 ざり、と土を踏みしめる前足の音に、柊子はぎこちなく振り向いた。
 闇の中、爆ぜる炎の合間に、その輪郭を見出せる獣がいる。
 姿形は狼に近い。体長は十メートルもあるだろうか。黒の毛皮に血走った赤い瞳、獲物に飢えた歯は鈍くぬめった光りを放ち、歓喜の時を待ち望んでいた。
 その口が大きく開き、獲物に襲い掛かる。
 棒立ちになっていた柊子に、牙が触れようとしたその瞬間、その体を抱き上げたイナクタプトが地を蹴った。
 次いで、振り下ろされた影虎の刃を、獣が避ける。頑強な歯に噛まれた刀を力ずくで抜いた影虎が、岩陰に滑り込んだ。すでに、イナクタプトも柊子もそこに腰を下ろしている。
「怪我はありませんか、柊子」
「だいじょぶ。ありがと」
 肩からずり落ちかけた蘭蘭を、柊子が掌で抱いた。
「なんじゃありゃ」
 欠けた刀を見て影虎が舌打ちする。
「災厄のかけら、というヤツだな。噂は聞いたことがあるだろう」
 イナクタプトの言葉に、影虎がそっぽを向いた。見上げた柊子が訊ねた。
「なに、それ?」
「その地の生物が闇の影響を受け、下僕と化すのです」
 イナクタプトは簡潔に述べた。
 別に珍しいことではない。崩れる世界の端が侵食すると、その地に棲む生物達は揃って獰猛になった。人を襲い、その血肉を糧とするのだ。自らが闇に飲まれるその時まで、その狂乱は終わらない。
 人の中にも、その影響を受ける者がいた、ともイナクタプトは両親から聞いている。豹変した人間を皆で始末する光景も珍しくはなかったと。
「それって……」
 柊子は絶句した。
 では、あの獣は、この地にいた生物なのだ。
「元は青い目をしたおとなしーいヤツじゃったな。草ばっかり食って」
「影虎、知ってるの?」
「柊子のとこにおったシマウマとかゆーのに、似とるわ」
「影虎ってば!」
 詰め寄る柊子に、苦々しい顔をした影虎が、耳を指差した。
「耳?」
 柊子が、獣の耳を仰ぎ見る。なにか、光るものがついていた。
 子供のおもちゃのような、ペンダント。
 巨体に似合わぬ小さなペンダントが、耳に引っかかって揺れているのだ。
「昔、共に過ごしたことがあります」
 イナクタプトが言葉少なに告げた。
「あれは、友の印として渡したものです」
「かーっ、でかくなったのう」
 こげにちいちゃかったのになぁと影虎が手を泳がせた。
「肉食わして腹壊させて、おかんにしばかれたわ」
「それはお前だけだ」
 言ったイナクタプトが剣に手をかける。それを契機にしたように、影虎も立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待って」
 慌てて柊子が呼び止めた。
「なんじゃ?」
「柊子、なにか?」
 二人が同時に振り向く。
「なにかって、どうするつもりなの?」
 今度は二人同時に目を瞬かせた。
「どうするもこうするもないじゃろ」
 影虎が刀を肩に担ぐように乗せる。斬るに決まっているとその態度は告げていた。
「止むを得ません」
 慎重に答えるイナクタプトにしても、言っていることは影虎と大差ない。柊子の後ろで、また、獣の咆哮が聞こえた。
「だって、だって、友達だったんでしょう?」
 柊子が言い募った。
 二人の割り切りがあまりに早くて、一人置いていかれているような気分だった。どうしてそう思えるのかがわからない。
「そうです」
 揺れる柊子の瞳を、イナクタプトが見据えた。凛として温かい、いつものイナクタプトの瞳だった。
「だからじゃ」
 問答している時間が惜しいとばかりに、影虎が背を向ける。その着物の端を、柊子が掴んだ。
「待って、待って! なんとかできるかもしれないから!」
「はあ?」
 影虎は呆れ返った。なにを言っているのかこの女は。軽蔑にも似た視線をよそに、柊子がかきまぜ棒を手にした。
「柊子、何を……」
「イナクタプト、黙ってて!」
 柊子の剣幕に、イナクタプトが言葉を止めた。
 自宅外、いや、風呂場以外での召喚は初めてだ。集中力を乱したくはなかった。
 岩場の中のかきまぜ棒は、限りなく不自然だ。
 本当に、湯船の中以外でも呼べるのだろうか? 柊子の胸を不安が過ぎった。
 出立前、その不安を訴える柊子に、太鼓判を押したのは源次郎だ。
「大丈夫、大丈夫。かーさんは、その棒だけで呼んでたぞ」
 おとーさん、信じてる。
 おかーさん、力を貸して。
 柊子がかきまぜ棒を握る手に力を込めた。その先から、ほのかな光が立ち昇る。それを認めたイナクタプトが一瞬息を呑んだ。
「お願い、助けて――里中さん! 筧先生!」
 光の軌跡を描いて、ふたつの召喚陣が空中に現れる。まばゆい閃光が、洞窟内に満ちた。
 

【召喚18・END】
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