まぜまぜダーリン


 青ざめた柊子が硬直する。
 その前に躍り出たイナクタプトと影虎が剣と刀を構えた。二人が地を蹴る。その素早さとは裏腹に、ゆったりとした動作で、里中さんは振り返った。
「あらぁ」
 眼前に大きく開かれた口を、しげしげと見つめる。牙から滴るよだれに、生臭い吐息。すうっと吸い込まれた息は、咆哮となって帰って来た。
「うわ!」
 あまりの大声に、柊子が耳を塞ぐ。
 里中さんは、うんうんと頷いていた。
「邪魔じゃ!」
 叫んだのは影虎だ。二人ごと斬る勢いで刀を振る。
「影虎!」
 イナクタプトが叫んだ。
「おやおや……」
 ゆったりと呟いた筧さんが、往診用のかばんから聴診器を取り出した。緩やかな動作でそれを掲げる。
 委細構わず振り下ろされた刀が、そこでぴたりと止まった。
 影虎が止めたのではない。その瞳は驚愕に見開かれていた。
「どうにも、せっかちですねぇ。少し待ってもらえませんか」
 微笑みながら、筧さんが言った。視線で語りかけられたイナクタプトも足を止めた。呆然とする影虎の前で、筧さんが里中さんに向き直る。
「どうですか」
「この子ね、棘が刺さってるみたいなの」
 里中さんは獣の鼻を撫でながら言った。鼻、と言っても、里中さんの顔ほどもある大きさだ。頭を垂れているとはいえ、背伸びをしなければ届かない。
 獣は、相変わらず唸り続けている。
「痛くて痛くて泣いていたのね。あんまり痛いから、じっとしていられなかったんでしょ」
 おばさんわかるわ、と里中さんは言った。
「それは……」
 本当なのだろうか。イナクタプトは毒気を抜かれた気分だった。
 斬らねばならぬと覚悟していた。その決意すら、見当違いだったのか。
「ああ……」
 頷いた筧さんが、獣に目をやる。じっと細められた老眼が、獣の全身を見渡した。
「あれかな? 色の違う毛があるねぇ……」
「どこにじゃ」
 影虎の頬がひくついた。全身が闇色に染まった獣。色が違うと言えば、怪しく光る瞳ぐらいで、他は周囲の闇と区別をつけるだけで一苦労だ。些細な違いなど、わかるはずもない。
 そんな影虎の心情を汲んでか、筧さんはにこりと微笑んだ。
「これでも医者だからねぇ……」
 本当は人間専門なのだが、どうやら源次郎のおかげで多少動物の心得も出てきたらしいと頭を掻く。
「ど、動物……」
 それはちょっと違う気がする、と柊子は思った。
 けれど、里中さんの言うことも、筧さんの言うことも、的を射ているのだろう。柊子は不思議と二人を信じられた。
 別世界に呼んだこと、こんな場所であること。
 不安要素は多々としてあるはずなのに、まるで感じない。それは、里中さんと筧さんも同じだった。
 召喚者と術者は、どこかで繋がっているのかもしれない。
 柊子はそんなことを思った。



 二人の言うことが正しいのか否か―――客観的な証明は、獣が動かないことで立証されたようなものだった。
「じゃあ、棘を抜きますからね。動かないで」
 筧さんが声をかけると、里中さんが「大丈夫よ」と獣を撫でる。くう、という鳴き声を聞きながら、筧さんは獣に登り始めた。
「怖くないんか」
「登り甲斐はありますけどねぇ……」
 筧さんが感心したように呟く。
 老体にはちときついかな、と口から漏れた瞬間、影虎が筧さんの体を担いでいた。
「おや」
「どこじゃ」
 こんなことは造作もないのだと、影虎が言外に告げていた。
「あそこです、あの、色の違う場所」
「わからん」
 ぞんざいに答えつつも、影虎は筧さんが指差すほうに足を進めた。獣が暴れだしたら、そのまますぐにでも飛び降りるつもりだった。その算段で、イナクタプトも里中さんの傍にいたのだが。
 杞憂だった。
「ああ、ここです、ここ」
 筧さんの声に、影虎がその体を下ろす。
 筧さんがゆっくりと腰を落した。しげしげと、獣の体を眺める。
 そこだ、と言われても、影虎にはどこもかしこも同じように見えた。筧さんが見ている同じ場所を見ても、である。
 そういうスキルが筧さんにある、ということかもしれない。
 影虎は無理矢理自分を納得させた。そうでなければ、老人の戯言につきあっているような錯覚に陥るのだ。
「深々と刺さって……これは痛かったろうねぇ」
 そう呟いた筧さんが、医療用のかばんからピンセットを取り出す。召喚された時に手にしていたのは湯のみだったはずだが、どうしてだか、今、傍にあるのは医療用具を携えたかばんなのだ。
 それを疑問にも思わず、筧さんは手にしたピンセットで、獣の毛のひとつをつまんだ。
 周囲の毛と同じく、黒い。
 その黒が、わずかに揺らめいて、光る。ほのかに纏った紫煙が、他の毛とは違っていた。
 筧さんが、その毛を抜く。
 抜いた――と思われたその時、痛みからか、獣が立ち上がり、吼えた。
 イナクタプトが無言で里中さんを抱き、飛び退る。
 バランスを崩した筧さんを、影虎が抱きとめた。
「あいたたた……」
 影虎の手に支えられた筧さんが、呻く。
「阿呆、大丈夫か」
「ええ、まぁ」
 筧さんがピンセットを掲げた。長い長い棘が、その先につままれている。
「これは、痛かったろうなぁ」
 獣が吼える。闇を震わせるようなその声は、長く、尾を引き――やがて、消えた。


「こっ、これが……」
 柊子は絶句した。
 目の前にいる動物は、草食動物特有の無害な雰囲気を持っていた。真っ白な体躯に、灯火のようなタテガミ、青い瞳が愛らしい。首に、イナクタプト達が渡したというペンダントが下げてあった。
「これが本来の姿です」
 イナクタプトが告げた。
「そう、だったんだ……」
 あまりのギャップに、柊子は驚いていた。これでは、人を噛むどころか、吼えすらしまい。
 イナクタプトが友人に選ぶのも、わかる気がした。
「じゃあ、柊子ちゃん、あたしらはこれで」
 里中さんの声に振り返る。
「あ、うん!」
 柊子は慌てて帰還陣を描いた。光の輪に乗った二人の姿が掻き消える。
 光の余韻を残す闇を見つめて、柊子は呟いた。
「よかった……かな? 呼んじゃって」
 後でどう説明すればいいんだろう。問いただされはしないだろうか。
「召喚の対象になる者は、それを当然の行為として受け入れます。柊子が懸念しているようなことにはなりません」
 イナクタプトが柊子の不安を打ち消した。礼を述べかける柊子に、改めて向き直る。
「礼を述べるのはこちらです、柊子。あなたのお陰で友を斬らずに済みました」
 頭を垂れるイナクタプトの横で、影虎が欠伸を噛み殺した。
「たまたまじゃろが」
「なんだと、影虎」
 両者の間に火花が飛び散り始める。気配を察した柊子が、さっさと歩き出した。
「いいよいいよ、ほら、先に行こ!」
 柊子の足が数歩を踏み出した時だった。

 脳裏を、赤い焔が過ぎった。

「あれ?」
 柊子が足を止める。
「どうしました? 柊子」
 イナクタプトが駆け寄る。その頬に刻まれた紋様を、柊子は見た。
「うん……なんか、見えたんだけど」
 柊子が頭に手をやる。
 なにも見えない。
「あれ? 気のせいだったみたい」
 大丈夫だと柊子が歩き出す。イナクタプト達がその後に続いた。
 頭の中、過ぎた炎。
 真一文字に引かれたそのラインを、柊子はどこかで見た気がした。



【召喚19・END】
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