まぜまぜダーリン

 中川家のご近所さんにして変態、東大目指して十一浪人中の夢追い人である佐藤さんは、召喚陣の中でぽかんと座り込んでいた。
「ごめんね、佐藤さん。こんなところに呼んで」
「しゅ、しゅ、しゅうこちゃんじゃないかあああ」
 柊子の顔を見た途端、その目が輝き出す。身の危険を無意識に感じてか、柊子は一歩後ずさった。
「あの、手伝って欲しいことがあって……」
「ん〜?」
 分厚いメガネをかけた佐藤さんは、勉強中だったらしい。片手には参考書が携えられていた。カッターナイフではなくて何よりだ。
「あ、これかぁ」
 門の前に浮き出た字を見た佐藤さんが、得意げに頷く。
「読めるの!?」
「ももももちろんだよおおおお」
 語尾にハートがついて蕩けそうなぐらいに声が甘い。怖い。
「ヒ、フェ、フェルマーの最終定理ね。数学のさささ最難問とも言われてたんだよなああああ。本にもなってたしいいいい」
「……わかる、かな?」
 柊子が呟く。それを聞きつけた佐藤さんのメガネが光った。
「ぼぼぼ僕、ちょうどその本読み終わったところろろだったんだあああ」
「え! じゃあ!」
「だだ、だから」
 佐藤さんが柊子に顔を近づけた。
「ご、ご、ご褒美にちゅーしてくれたら、ここ、答えても」
 その言葉すら切り落とす勢いで、イナクタプトが剣を二人の間に差し入れた。
 前髪を数本切られ、硬直した佐藤さんの耳下で、イナクタプトが凄む。
「貴様の首と胴が繋がっていること自体が我が主の恩恵だ。感謝するがいい」
「……はい」
 蚊の鳴くような声で答えた佐藤さんは、がっくりと肩を落として、門へと向かった。
「ちょっと、悪いことしたかな……」
「いいえ」
 柊子の呟きを、イナクタプトが即座に否定した。その目が監視するかのように佐藤さんを見ている。
「3 以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる 0 でない……」
 書きながら呟かれる言葉の半分も、柊子には理解できなかった。
 しかも、長い。
 延々と綴られる回答を見たイナクタプトも驚いている。
「すごい……これ、全部覚えてるの?」
「うん」
 事も無げに佐藤さんは言った。
「ぼぼ、僕は記憶力はいいんだ。だ、だからテストは満点で」
 ででででも、と佐藤さんは言った。
「面接が、ま、まるでダメで……」
 答えを書くその手が震えている。その挙動不審ぶりでは無理もないと影虎が顔を歪めた。
「でも、こんなの覚えられる人っていないよ! 佐藤さんすごい!」
 柊子は素直に感心した。その言葉を聞いた佐藤さんの顔がぱっと明るくなった。
「そそそ、そうかな」
「そうだよ! あたし、こんなのできる人知らないもん!」
 咽元までたくさんの言葉が出かかった佐藤さんは、どれも言葉にならなかったらしい。真っ赤になりながら、大層嬉しそうな顔をした。
「お、お、終わったよ」
 最後の一文字を書いた佐藤さんが立ち上がる。
「ありがとう!」
 柊子は心からの礼を述べた。

 答えを飲み込んだ門が開くのを確認して、佐藤さんは柊子の描いた帰還陣に乗った。光の輪が、ゆっくりと収束していく。
「ほんとにありがとう。勉強、がんばってね」
 柊子の微笑と共にかけられた言葉に、佐藤さんの頬が緩んだ。
 今度の春は、きっといいことがある。
 それは予感に似た確信だった。

 佐藤さんを見送ると、柊子は門に向き直った。
 書かれた解答を吸い込んだ門は、ゆっくりとその扉を開いていた。
 外の風が吹き込んでくる。激しい勢いに、柊子のスカートが舞った。
「きゃあ!」
 慌てて押さえ込む。
 乱れる髪をかき上げながら、柊子は見た。
 轟く稲光、そして立ち込める黒雲。
 荒れ果てた大地の上に立つ、白いワンピースの女性。
 擦り切れた裾を構うでもなく、足は泥にまみれ、美しかったであろう黒髪も、今は汚れている。
 その姿を、その名を、柊子は知っている。
 巨大な黒い影のような獣と比べて、その姿はなんて小さいのだろう。
「おかーさん……」
 決して振り向こうとはしない背に向けて、柊子は呟いていた。


【召喚20・END】
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