まぜまぜダーリン

 最後の門をくぐる、その瞬間。
 柊子の脳裏を、紅い炎が走った。
「あっ」
 暗闇を過ぎる炎のイメージに、柊子の足が止まる。
 左右対称の曲線が紋様を象って、炎は消えた。
「柊子、どうしました」
 イナクタプトが声をかける。
「あ、ううん、ちょっと……」
 答えた柊子の言葉が、途中で消えた。
 門の先から、乾いた風が吹き込んでくる。同時に、灼熱にも似た暑さを感じた。
 飛んでくる流砂に、柊子が思わず目を閉じる。
 強風の中、わずかに目を開く。
 その視界に、女の姿が映った。


召喚21:「おかーさん、と。」


 その女の髪は、黒く、長かった。
 稲妻が走るたびに、腰まではあろうかという黒髪が光を反射する。
 白いワンピースの裾はほつれ、大地を踏みしめる足は剥き出しのままだ。
「おかーさん……」
 柊子が呟く。
 暗闇が象った獣と対峙した女は、振り向こうとはしなかった。
 杖を掲げ、何事かを叫ぶ。瞬く間に現れた召喚陣が三つ、鮮やかな光を放った。
 飛び出した剣士達が、獣へと向かっていく。刃と牙とで火花が散る。その様を見た影虎が、鷹揚に頭を掻いた。
「ようやるわ」
「影虎」
 イナクタプトの言葉に棘が滲む。
 わかっていると言いたげに、影虎の顔が歪んだ。ちらりと柊子を横目で見た影虎が、女に向けて叫ぶ。
「おい、トーコ!」
 ぴくり、とトーコの肩が動いた。
 その背が、徐々に振り返る。
 柊子の胸が高鳴った。
 母親の顔は――知っている。源次郎が大切にとっておいた写真、それを見たことがある。
 けれど――会うのは、初めてだ。
 トーコの顔の輪郭が見えた。
 頬が、そしてお世辞にも高いとは言えない鼻のラインが覗く。
 柊子はぐっと唇を噛み締めた。
 心臓が鼓動を刻む。
 やがて二つの瞳が現れ、トーコは完全に柊子達を見た。

 幼い。

 それが柊子から見たトーコの第一印象だった。
 イナクタプトから時の流れが違うとは聞いていた。それにしても、である。
 源次郎の年齢と大差ないはずのトーコ・ナカガワは若かった。柊子と姉妹だと言っても、通用するだろう。
 振り返ったトーコの瞳は、なにも見ていないように見えた。
 その瞳が、瞬く。
「あーっ!」
 トーコが影虎を指差す。
「影虎だあ!」
 慌ててトーコは柊子達――正確には、影虎に――駆け寄った。
「影虎、影虎!」
 何もないところでもつれて転びそうになる。息を弾ませながら、トーコは影虎の前に立った。
「元気だった?」
「おう」
 影虎が横柄に答えた。途端に、トーコは泣き出しそうな顔になった。
「良かった、良かったよおお」
 ぼろぼろと涙をこぼす。その様を、柊子はあっけにとられながら見ていた。
「影虎、強引に帰っちゃうんだもん。あんな怪我してたのにぃ」
 しゃくりあげるトーコの前で、影虎はバツが悪そうに視線を彷徨わせた。
「大した怪我じゃなかろうが、阿呆。勝手に治癒系のモンなんぞ呼ぼうとしよって」
 そんなことに力を裂かせたくはなかったと、影虎が言う。潤んだ瞳のまま、トーコは唇を噛み締めて影虎を見上げた。
「だって、大怪我だったじゃない〜」
「それはもうええ!」
 これ以上追求されてはたまらないと思ったのだろう、影虎は傍に居た柊子の頭をぐいと押した。
「ほれ、これがわしの今の主じゃ!」
 トーコの大きな瞳が柊子を見る。
 どちらかと言えば小柄なトーコを、柊子は見下げる形になった。
「主さん?」
「あ、の……」
「柊子じゃ。お前の娘じゃろが」
 影虎が言う。
 その言葉を反芻するように、トーコの瞳が瞬いた。
「しゅー、ちゃん……?」
 柊子の体が硬直した。
 返事をしなければと思うのに、言葉が出ない。
「しゅーちゃん? 本当に?」
 トーコが確かめるように柊子を凝視した。柊子の頬を包むように、両手でそっと触れる。「本当だ、しゅーちゃんだ、源ちゃんにそっくり……!」
 トーコの瞳から、涙が次から次へと湧き出ていた。
 嗚咽を漏らしながら、それでもトーコは柊子から目を離そうとはしなかった。
「すごい、背が高いんだね。こんなに大きくなって」
 笑いながら、泣きながら、トーコは柊子の頬をなぞるように撫でた。その手が震えながら止まる。
「ごめんねごめんね……」
 ぼろぼろとトーコの頬を涙が流れる。柊子は、それを呆然と見ていた。
「傍にいられなくて、ほんとにごめんね……!」
 母に会ったら、聞きたいことはたくさんあった。
 どうして置いて行ったの、おかーさん。
 今までなにをしてたの。
 あたしは元気だったよ。友達もたくさんいるし、部活だって。
 そりゃ時々は淋しかったけど、おとーさんがいたし。
 おとーさん。
 
 あのね、おかーさん。
 おとーさん、平気なフリをしてたけど、でもやっぱり淋しそうだったよ。

 ねえ、あたしのこと、ちょっとは気にしてくれてた……?

 本当にたくさんあった。
 それらが何一つ、声にならない。
「うん……」
 頬に触れた手が温かい。ただ、それだけで。
 どうして全てを許してしまえるんだろう。
「いいんだよ、おかーさん……」
 柊子は笑おうとした。うまく表情が作れない。笑みを結ぶはずの唇が震え、ぽろぽろと涙が零れ出す。
「ふ……」
 漏れ出す嗚咽は止めようがなかった。
 ぎゅっと目を閉じて、柊子はトーコを抱きしめた。トーコの手が、柊子の背を抱く。
 温かい、柔らかな感触。そして、かすかに香る甘い匂い。
 確かに知っている。
 遠い、昔日に――その手がやはり、柊子を抱きしめたこと。
 柊子が覚えているはずはない。
 それでも。
 柊子は母を抱く手に力を込めた。

 知っている。
 本当は、ずっと、このぬくもりを捜していた。


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