どのぐらいそうしていただろう。
母子の抱擁を引き裂いたのは、暗闇が象った獣の咆哮だった。
「ぐっ!」
呻いた剣士が、その前足に弾き飛ばされた。
「いけない!」
我に返ったトーコが、顔を上げる。ニ、三歩駆け出したところで、手にした杖を回す。空中に垂直に描かれた召喚陣。その中から、また新たな戦士が飛び出した。
ターバンを巻いた男が独特の曲線を描く剣を手に、獣に飛び掛る。その隙に、トーコは倒れた剣士に駆け寄った。
「大丈夫?」
「お気遣い無用」
剣士の周りを妖精らしき光が飛んでいる。放たれる粉は、次々に剣士の傷を癒していた。
「よかったぁ〜」
気が抜けたように、トーコはその場に座り込んだ。
微笑むその背後で、獣が唸り声を上げる。
放たれた一撃は、確実にトーコを狙っていた。
「おかーさん!」
柊子が叫ぶ。
トーコが振り向く。
イナクタプトと影虎が、各々の武器を手に地を蹴る。
それら全てが、柊子にはスローモーションに見えた。
マニアワナイ。
今までの経験が、柊子にそう告げていた。
獣の爪が、トーコの眼前に迫る。
「いやああ!」
かきまぜ棒を握り締め、固く目を閉じ、柊子が叫ぶ。
次の瞬間、辺りに衝撃が走った。振動が地を震わせ、拳圧が風となりあたりに吹き荒れる。
その余韻が過ぎても、誰一人言葉を発しなかった。
柊子は恐る恐る目を開いた。
イナクタプトと影虎の姿が見える。
二人とも、まだトーコに辿り着いていない。
それを知った柊子の手が震えた。
ふわり。
柊子の視界を白いものが過ぎた。
トーコのワンピースの裾が揺れている。
先程と同じ姿勢のまま、トーコは座り込んでいた。
トーコが見上げる視線を辿り、柊子はその人物を見た。
トーコの前に立ち、その爪を受けている者がいる。
身に纏ったゲルマン風の甲冑は古く、いかめしい。爪を受ける斧にも年季が入っている。がっしりした体躯は崩れることなく獣の力を受け止め、その場に留まっていた。
そのカブトから覗く顔。
普段は笑いの絶えないその目が、今は真剣そのものだ。武骨さを絵にしたような顔立ちを、柊子はよく知っていた。
「源、ちゃ……」
トーコの声が震える。
「おとーさん!」
柊子が叫んだ。
「おう」
源次郎は微笑んだ。獣の爪を受ける斧が震える。それを見計らって、源次郎は斧を横に払った。獣の爪がそれて行く。
勢いづいた獣の爪が大地を削る音と、飛び散る岩の中で、源次郎は微笑んだ。
「待たせたな」
以前――あれは、確かこの世界に来て間もない頃のことだったように思う。イナクタプトの屋敷に案内され、部屋で一人になった時だ。
柊子は密かに源次郎を召喚しようとした。
時の流れの話を聞き、いてもたってもいられなくなったのだ。
父親を従者にする。それに抵抗がないと言えば嘘になるが、それでも何もしないよりはマシだった。
だが、柊子の希望に反して、何度かきまぜ棒を振っても、源次郎は現れなかったのだ。
「どうしてよ!」
苛立った柊子が床にかきまぜ棒を投げつける。その目には涙が滲んでいた。
「柊子、どうし……」
物音を聞きつけたイナクタプトが、部屋に入り込んだ。
立ち尽くす柊子と、床に転がったかきまぜ棒。イナクタプトはそこで何が起きたのかを察したようだった。無言のまま、床のかきまぜ棒を手に取り、埃を払う。そしてゆるやかな仕草で、柊子に差し出した。
「……来ないの」
柊子が涙声で言った。
「おとーさん、呼ぼうと思ったのに、来ないの……!」
こぼれ落ちそうなほどの涙をためて、唇を震わせながら柊子は言った。
親を探す幼子のようだ。
「柊子……」
しばらく黙っていたイナクタプトは、やがて意を決したように口を開いた。
「源次郎殿は、既に咎から解放されています」
柊子が顔を上げる。
「解放……?」
「赦されているのです。故に、何者の召喚も束縛も受け付けません。唯一人を除いて」
わかったようなわからないような説明に、柊子が小首を傾げる。イナクタプトは、ゆっくりと説明した。
咎が終わらなくても解放される術があること。
それは、召喚士の専属の従者になることなのだと。
「それじゃ、自由じゃないじゃない」
何かに縛られ続けることに変わりない。
柊子がそう言うと、イナクタプトは首を振った。
「いいえ」
尚も不満げな柊子に、言葉を重ねる。
「その時、相手となる召喚士は我々が心許した者に限られます。無論、相手の許諾が必要となりますが……」
イナクタプトはそこで無言になった。説明が過ぎるとでも思ったのだろうか。
なにも言わぬまま、イナクタプトがかきまぜ棒を見つめる。
やがて紡がれた言葉には、奇妙な感慨が満ちていた。
「我々は、通常、主を選ぶことはできません。ですが――」
その時だけは。
「生涯でただ一度だけ、自らを繋ぐ相手を選ぶことができるのです」
それはこの上なく自由で幸福なことなのだと言って、イナクタプトは柊子にかきまぜ棒を手渡した。
あれから、ずっと考えていた。
おとーさんが契約したのは、誰なんだろう。
柊子は自分が震えるのがわかった。
どうしてわからなかったんだろう。
こんなに簡単なことだったのに……!
「源、ちゃん……」
トーコが呟く。幻を見るような信じられない面持ちは、次第に歓喜とも悲哀ともつかない表情になってきた。
「おう」
源次郎が微笑む。
「久しぶりだな」
歳月など感じさせないその口調に、離れていた月日を物語るその顔の皺に、トーコの表情が歪んだ。
「源ちゃん……!」
駆け寄るのももどかしく、トーコが源次郎の胸に飛び込む。
柊子は、見た。
トーコが抱きついた瞬間、源次郎の顔が歪むのを。
泣きとも笑いともつかない表情の瞳は、遠くの歳月を懐かしんでいるようにも見えた。
「……よく、頑張ったな」
しゃくりあげるトーコの頭を、源次郎が撫でる。
武骨ながらも穏やかな顔は、柊子のよく知っている表情で、満ち足りたような微笑は、柊子が初めて見るものだった。
「おとーさん、おかーさん……」
立ち尽くしたまま、柊子は呟いた。
「よかった……」
知らずに、涙が零れる。
再会を祝してではない。
そこに二人の絆があることが、たまらなく嬉しかった。
【召喚21・END】