轟音が辺りに響き渡る。
「きゃあ!」
激しい揺れに、柊子がバランスを崩した。その場に座り込む。
「蘭蘭ちゃん……」
見上げた視線の先に、巨大パンダと化した蘭蘭の姿があった。暗闇を象った獣と、がっぷり四つに組み合っている。
力の均衡は互角に思われた。
否、わずかに気圧されている。
「イナクタプト!」
柊子が叫んだ。手にしていたかきまぜ棒が光る。
呼応するかのように、折れていたイナクタプトの剣に光が集った。その光が、瞬く間に、剣の形を取る。
それを確認する間もなく、イナクタプトは地を蹴っていた。
「おお、お!」
獣の体を駆け上がるその足が、宙を飛ぶ。銀髪が漆黒の空になびいた。イナクタプトが剣を持つ手に力を込める。
眼下に佇むは、世界を食む獣。
父も母も、祖父母もその祖先すら、常に脅かしてきた存在。
憎いという感情さえ抱かなかった、それほど日常だった。
けれど、柊子の世界に行って知った、平穏の恩恵。追われる感覚のない世界。
それが叶うのなら……!
イナクタプトの金色の瞳が、細められる。
勢いのままに、剣を獣の頭に埋め込んだ。
獣の絶叫が響き渡る。最後に残された希望すら根こそぎ攫っていくような、おぞましい声だった。
それが唐突に途切れる。同時に、獣の動きも止まった。
ぱきん、という音を、柊子は聞いた気がした。
獣を象っていた暗闇が、割れた。
元は形のないものとは思えないほど無機質に、割れた。
その破片が四方八方に飛び散っていく。
破片のひとつは、影虎の頬を掠め、空を裂いた。
空を覆っていた黒雲が、消えていく。
代わりに見え始めたのは、紫色の、夕暮れにも似た空だった。
どこからともなく光が差し始める。
差し迫っていたはずの闇が、どこかに消えていた。
「……やったんか」
肩で息をした影虎が、どっかりと腰を下ろした。流れるような汗が、疲労を物語っていた。
「恐らくな」
イナクタプトが辺りを見回しながら答える。
岩陰に落ちた小パンダ姿の蘭蘭を拾うと、イナクタプトは足早に柊子の元へと向かった。
「柊子」
やはり座り込んでいる主の前で、膝を付く。
「イナクタプト」
ほっとしたような顔で、柊子は言った。
「やったね、よかったね」
「柊子のお陰です」
「あたしはなんもしてないよ」
柊子はイナクタプトの肩で寝ている蘭蘭に目をやった。
「蘭蘭ちゃんも、おつかれさま」
健やかな寝息で蘭蘭が答える。膨らむ鼻提灯を見て、柊子とイナクタプトは微笑んだ。
「終わったんだね」
ほっとしたように、柊子が辺りを見回す。
乾ききった岩に、砂。
荒涼とした大地が、どこまでも広がっている。緑らしい緑も、見当たらなかった。
遠からず、この世界は砂漠に食われる。来るべき破滅に対し、わずかな延命作業をしたに過ぎないのかもしれない。
柊子がそう思った時だった。
柔らかな藤の香りがした。
どこからともなく、藤の花弁が舞い始める。
「え……?」
ひら、ひらり。
風の強いこの場所で、それでも消し飛ぶことなくゆっくりと。
時さえも止めるような独特の空間に、柊子は見覚えがあった。
「迷いは晴れたか」
涼やかな声と共に、その主が現れる。
黒と朱の陣羽織に、藤の髪飾り。いつだったか、公園の藤の傍で会った――
「あ……!」
柊子が絶句する。イナクタプトが柄に手を伸ばす。それを認めつつ、ななしさんは目を細めた。
「お前の霧が晴れた、それを感じた」
柊子の頭をくしゃりと撫でる。
「よくやったな」
ななしさんが扇を広げた。舞でも舞うかのように、ひらりと振る。
藤色の光が、砂漠に舞い散った。
落ちたその先から、次々と緑が芽吹く。
「これは……!」
イナクタプトが目を見開いた。急成長していく植物達に、影虎も驚いている。
「俺からの褒美だ」
元が砂漠だとは思えない、茂るような緑の中で、ななしさんは微笑んだ。その体が透け始めた。消えようとしているのだと、柊子は察した。
「ま、待って!」
ななしさんの藤色の瞳が瞬いた。
「なんだ?」
「また、あそこに戻るの? あんな――」
淋しい場所に。
どこまでも続く闇のような場所だった。
温かく感じたのは、ななしさんがいたからに過ぎない。
彼は、あの場に一人いるのだ。そして恐らくは、これからも。
「俺はあそこで待たねばならない」
ななしさんが告げた。もう瞳が笑っていない。
「友との約束だ」
お前が、お前の役を果たしたように。
俺にも果たさねばならぬ役がある。
なおも柊子が追いすがろうとした時、既にななしさんは消えていた。
「……行っちゃった……」
呆然とする柊子の傍らで、イナクタプトが剣を収めた。
「柊子、あの者は」
「うん」
柊子が掌をそっと開く。
「また助けてもらっちゃった」
ななしさんの残した藤の花弁が一片、柊子の掌に乗っていた。
【召喚22・END】