まぜまぜダーリン

召喚23:「さいごのしょうかん<ずっと、いっしょ>」

 その夜の中川家の夕食は、にぎやかなものだった。異世界から戻って、頬に風が触れた瞬間、急にほっとしたのを柊子は覚えている。その余韻に浸る間もなく、夕食の準備へと追われていた。
 源次郎はもちろん、影虎、イナクタプト、蘭蘭がテーブルに座っている。
「柊子、酒がねぇぞ!」
「わかってるよ、おとーさん」
 しょうがないなと呟きながら、柊子がシンク下の戸棚を漁る。ふと見上げると、キッチンに立つトーコの姿が目に入った。
「あっ、影虎! めっ!」
 ふらりとトーコに近づいた影虎が、その隣にあった出来立ての天ぷらを口に放り込む。まだ調理途中のトーコが菜ばしを上げて抗議した。
「別にええじゃろ。ん、旨いわ」
 土産とばかりにもうひとつを摘まんで、影虎は居間へと立ち戻った。イナクタプトの小言も、効果がないようだ。
「まったく、もう」
 トーコが拗ねたように頬を膨らませる。
 その目が、柊子を見た。しっかりと、目が合う。
 一瞬たじろいだ柊子に、トーコは屈託のない笑みを見せた。
「しゅーちゃんは、天ぷら、好き?」
「あ……うん」
「源ちゃんが好きだったんだよねー。よく作ったんだ」
 トーコが手際よく海老を揚げる。皿に盛られたタマネギの白と春菊の緑に、海老の赤さが際立って見えた。
「しゅーちゃんの好きな物も、今度教えてね」
 油の跳ねる音が、リズムになる。歌うような声だと、柊子は思った。
「おかーさん、たっくさん、作るから!」
「うん」
 その時は、おかーさんの好きな物も、一緒に作ろう。
 柊子は心から頷いた。

 夕食はいつの間にか酒宴へと変化した。否、初めからそうだったのかもしれない。
「源ちゃん、呑み過ぎ」
 トーコにそうたしなめられつつも、源次郎は呑むのを止めようとはしなかった。これ以上旨いものはないと言わんばかりにあおり続ける。その腕は、しっかりとトーコの肩を抱いていた。
 それを見た柊子が、そっとトーコに近づく。
「おとーさん、おかーさんと契約してたんだ?」
 確認するように聞くと、トーコの目が丸くなった。
「契約?」
「専属の従者になるって」
「誰が?」
「え……っ」
 きょとんと小首を傾げられて、うろたえたのは柊子のほうだ。
「あれ? イナクタプトがそう言って……」
「イナクタプトが?」
 トーコがイナクタプトを見る。それから何事か考えるように視線を巡らせ、ぽんと手を打った。
「しゅーちゃん、しゅーちゃん」
 大切な話でもするかのように、声を潜める。手招きされ、柊子はトーコに耳を寄せた。
「な、なに?」
 トーコが柊子の耳に囁く。
「その言い方はイナクタプトらしいけど、違うの。もっと簡単なの」
「え?」
 トーコは嬉しそうに微笑んだ。ぎゅっと源次郎の手を握る。
「両想いってコト。ずっと二人一緒にいるってことだよ」
「呪いを解くにはお姫様のキス。愛の力で呪いは解けましたとさ。羨ましいか、柊子!」
 酔った源次郎がトーコを抱き寄せる。
「もう、おとーさん!」
 またふざけて、と柊子が怒る。
「柊子」
 イナクタプトが柊子を呼ぶ。今夜ぐらいは好きにさせてやれと言いたげな視線に、柊子は怒りを飲み込んだ。
 確かに、源次郎にすれば、何年ぶりの再会なのだろう。
 妻と、娘と、自分。集うことなどなかった家族。
「もう」
 柊子が肩を落とす。
「しょーがないなぁ……」
 仕方なさそうに笑う、その視線の先には、幸福そうな源次郎の笑顔があった。


 真夜中を過ぎて、ふと柊子はイナクタプトが居間にいないことに気づいた。
 トーコの手を握りつつ眠りに落ちた源次郎を起こさぬよう、そっと居間を抜け出る。睡魔とも酔いとも無縁そうな影虎が、酒瓶を傾けたまま、興味なさそうに見送った。テーブルの上では、酔いつぶれた蘭蘭が、小パンダ姿のまま大の字で寝ていた。
「イナクタプト」
 庭に出た柊子が静かに声をかける。月を仰いでいたイナクタプトは、ゆっくりと振り返った。銀髪が夜風になびく。
「なにか」
「姿が見えないから。どうしたのかなって」
「酔い覚ましに夜風を、と」
 なびいた銀髪の合間から、頬に刻まれた紋様が見えた。
 一族の罪の証。代々受け継がれる咎。
「……消えなかったね」
 柊子が言う。
 夜の冷気がひんやりと二人を包んだ。
 あの時。
 無機質に散った獣の欠片は、かの世界の住人達に向かっていった。
 身に宿した咎を、浄化するために。
 そうと知ったのは、町に戻ってからだ。
 罪の烙印が消えた。これで全てから解放されたのだと、人々は狂喜していた。慌てて振り返った時のことを柊子はよく覚えている。
 視線を感じた影虎が、面倒そうに頬をこすった。
 砂と血で汚れていたために、気づかなかった。
 その頬から、紋様が消えている。
「影虎!」
 よかった! と言い終わらぬうちに、柊子は見た。
 イナクタプトの頬を。
 そして、そのまま笑みが凍りつくのを感じた。
 
 消えていない。

 イナクタプトの頬には、紋様が鮮やかに刻まれたままだ――

「あれを殺すのも咎のうちなんじゃろ」
 いつの間にか壁に寄りかかっていた影虎が、面白くもなさそうに言う。浴びるように呑んでいたにも関わらず、その気配を微塵も見せない。
「最後の呪い、っちゅーわけじゃ」
「影虎……」
 柊子の声を振り切るように、手にした刀を睨みつつ、影虎は一人ごちた。
「わしならええ。戦いはわしの性分じゃけぇ」
 影虎が挑むような視線をイナクタプトに向ける。イナクタプトは、静かに受けた。
「無論」
 風が吹く。
「私とて後悔などしていない」
 凛とした声に、柊子は目を細めた。
 イナクタプトは戦わなければならないのだ。
 これからも、ずっと。
 この先も、きっと。
 自由になる、その日まで、一人で――
 柊子の胸に去来する、それは棘のような感情だった。

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