「朝までいればいいのに」
夜明けを待たずに帰り仕度をするイナクタプトと影虎に、柊子は呆れたような声を出した。
「武器だって、まだないんでしょ?」
二人とも、剣と刀を修理に出していた。惨状を見た店主は閉口し、特にイナクタプトの剣は二つに折れたのだからと新しい物を勧められたが、イナクタプトは先祖伝来のものだと頑なに固辞したのだ。
「明朝には修理が終わります」
甲冑を身に纏ったイナクタプトが端的に答えた。あのお祭り騒ぎの中、店主が真面目に仕事をしているとは思えない――と言いかけて、柊子は気づいた。
時の流れが違うのだ。
そうだ。
違うんだった。
常にイナクタプト達と傍にいたせいだろう、柊子にその実感は薄かった。両親との再会も拍車をかけていたかもしれない。
心のどこかで、また会えると、そう思っていた。
唐突に、理解した。
この別れは、きっと一生のさよならになるのだ。
「ほれ、帰るぞ。ちゃっちゃとしぃ」
影虎が柊子にかきまぜ棒を投げて寄越す。
本当に帰る気なのだ、この男は。余韻のひとつも残さずに。
ドライにも程がある。
柊子はむっとした。
「なんじゃ、不満そうじゃの」
「別に」
ぼりぼりと頬を掻いた影虎が、ふと思いついたように、笑みを見せた。悪戯ッ気が滲んでいる。
「さては淋しいの?」
額がつくような距離で、影虎が柊子を覗き込む。滲んだ涙を見られまいと、柊子は唇を噛んだ。
「べ、別に!」
そんなことはないと大股に浴室に歩いていく。
浴槽にたゆたう湯を見て、柊子は振り返った。
「ねぇ、ほんとにここからでいいの? 庭とかじゃなくて?」
「風呂場に呼ばれることなんぞ、もうないけぇの」
からからと影虎が笑う。
イナクタプトが無言で頭を下げた。
「じゃ、いくよ」
柊子がかきまぜ棒を構える。
揺らめく湯の中、描かれる軌道は、初めて描くものだった。
否、一度は描いている。
いちばん初めの、あの時。
イナクタプトを呼んだ時に――
帰還陣の描き方がわかった、とイナクタプトに告げた時、イナクタプトは喜びも悲しみもしなかった。
「そうですか」
淡々と事務的に答え、帰り支度を始めた。
もしかしたら――柊子はかきまぜ棒を回しながら思った。
黙っていたほうがよかったのかもしれない。
そうすれば、イナクタプトはずっと傍にいて、影虎も時々呼んで、今と変わらないままいられるような気がした。
掠めた思考を振り払うように、柊子が頭を振る。
そんなことはできない。
イナクタプトは、この世界の人間ではないのだ。
ものの数秒で、帰還陣は描き終わった。
浴槽の中に、光が満ち始める。
その気配を察してか、源次郎が浴室に顔を覗かせた。
「なんだ、帰っちまうのか」
「ああ」
イナクタプトが頷く。その肩には、酔いつぶれた蘭蘭がだらしなく乗っていた。
「達者でな」
影虎が手を振った。
浮かび上がる帰還陣に、二人が足を踏み入れる。
まばゆいばかりの光に、柊子は目を細めた。
光のベールが二人の体を包み始める。足元から、光に包まれるようにその姿が消えていった。
「イナクタプト!」
柊子は叫んだ。
何を言えばいいんだろう。
「ありがとう! あたし……!」
言いたいことはたくさんあるのに、なにひとつ言葉にならない。
光の中、イナクタプトが柔らかに微笑む。それが契機になった。
柊子が浴槽のふちに足をかける。帰還陣に飛び込むような勢いで、柊子はイナクタプトの頬に口付けた。
「柊子……」
イナクタプトが驚いたように柊子を見た。影虎が口笛を吹く。瞳を潤ませた柊子が微笑んだ。
「あたしじゃダメなのは、わかってる。でも」
イナクタプトがいつか、その咎から解放される日が来るように。
願わずにはいられない。
瞬間、湯船に新たな光が満ちた。一際大きく輝く光の輪が、帰還陣を呑み込む。イナクタプトの体を駆け上がるように包んだ光は、まばゆいばかりの輝きを放って、飛び散るように消えた。
「な、なに……今の」
光の消えた湯船を、柊子が凝視する。
揺らめく湯は、何事もなかったかのようにたゆたっている。
そこに、イナクタプトの足が見えた。帰還陣が消えたせいで、湯船に浸かっている。磨き上げられた甲冑がバスタブで湯にさらされている姿は、どことなく違和感があった。
「びっくりしたね。イナク……」
顔を上げ、その顔を見た柊子は目を見開いた。
イナクタプトの頬に刻まれた紋様が消えている。
「イッ、イナクタプト……!」
柊子の視線を辿ったイナクタプトが、己の頬を指でなぞる。静かに鏡へと向けられた目は、そこに変化を認めて、わずかに見開かれた。
「おお、お前ら! そうだったのか!」
豪快に笑った源次郎が柊子の背を叩く。勢いむせた柊子は慌てて弁明した。
「ちがっ、おとーさん! 違うよ! だって!」
呪いを解くにはお姫様のキス。
愛の力で呪いは解けましたとさ。
柊子の脳裏に源次郎のふざけた解説がよぎった。
確かに、願った。
イナクタプトがいつの日か重荷を下ろす日が来れば良いと。
「だって……」
そう願って口付けた。しかし、心通じ合う者同士でなければ、無効なはずなのだ。
柊子は混乱した。
「え? だって……両想いじゃないとって、え?」
柊子が混乱のままにイナクタプトを指差す。
「……え?」
イナクタプトが、己を突き示す指を凝視した。しばらくそうした後、観念したように目を閉じる。
「……申し訳ありません」
羞恥のためか、頬にかすかな朱が走っていた。
「え? え?」
ということは、つまり。
「ええええー!?」
柊子の悲鳴が周囲に響く。「まっ、愛ね!」とは、ご近所の里中さんの証言である。
【まぜまぜダーリン・完】
2007.3.7.〜2009.3.1.