まぜまぜダーリン

 コイバナと言えば、恋の話。老若男女を問わず、誰しもが一度は口にしたことがあるに違いない。ことに、思春期の少女ならば、特に喜ぶ話題だろう。
 にも関わらず、柊子に河原に連れ出された影虎は、面倒さを隠そうとはしなかった。
「なんでワシなんじゃ」
 夕暮れ時の空は一面の茜色だ。雲の影がかすかに青味を帯びて流れていく。
「だって……」
 柊子は言いよどんだ。イナクタプトを知り、柊子も知る人物。他に妥当な人間がいない、という理由は失礼な気もしたが、事実でもある。
「なんじゃ? 困っとるなら、トーコにでも聞けばいいじゃろが」
 影虎がだるそうに頭を掻いた。着流しの裾が風に揺れる。草履が土にやけに馴染んで見えた。
「うーん、それも考えたんだけど」
「大体、イナクタプトのことってなんじゃ? 相談するようなことがあるとも思えんが」
 ギルドの件は誤解を解いたと聞いている。他に何があるというのか。影虎には理解しがたかった。
「うーん」
 柊子はうなった。
 キスされた、とは言いにくい。思い出すだけで赤面してしまう。
「おかしなヤツじゃな」
 ひとりでに赤くなる柊子を見て、影虎が嘆息した。
 話があると呼び出しておいて、言いよどむ。その心理が、影虎には理解しがたかった。くるくる変わる柊子の表情は見物だが。
「どうすればいいのか、わからなくって」
 今までも、イナクタプトと接近したことは何度もあった。けれど、この間のは、まるで意味が違う。そのことが、柊子に混乱をもたらしていた。
「男の人なんだ、って思ったら、急に――」
 意識してしまった。
 影虎は呆れたように口を開けた。目が馬鹿だと言っている。
「阿呆」
「なっ!」
 柊子が真っ赤になって怒り出した。
「もう! 人が真剣に悩んでるのに!」
「くだらん悩みじゃ」
 影虎が欠伸を噛み殺した。水面がきらきらと陽光を反射している。そこに落ちる影が、流れていく川の深さを物語っていた。
「くだらないって……影虎だって、あるでしょ?」
 柊子がむくれたように言った。
「なにがじゃ」
「誰かを好きになったこと」
 影虎が眉をひそめた。敏感に表情を読み取った柊子の目が煌く。
「あるんだ!」
「やかましいわ」
 影虎がそっぽを向く。柊子は追いすがった。
「ね、ね、どんな人?」
「自分の悩みを聞いて欲しいんじゃろが。早う言わんか」
「別にいいよ。それより、影虎の好きな人ってどんな人?」
「無闇に言うようなもんじゃなかろう」
「じゃ、誰にも言わないから!」
 柊子の目がこれ以上なく輝いている。
 迂闊な自分を呪いながら、影虎は絶句した。
 柊子の顔をしげしげと見つめる。そこに確かに、かの人の面影があった。
「……ワシが惚れるのは」
「うん」
 柊子が頷く。
「粋な女」
「やっぱり! そんなカンジするもんね」
「……のはずじゃった」
 続く言葉に、柊子は驚いた。
「違ったの?」
「違った」
「なんで?」
「わからん」
 そんなことに理由があるのならば、己が聞きたい、と影虎は思った。
「ねえねえねえ、それで、どんな人?」
「これ以上は言わん」
 話を打ち切ると同時に、影虎はくるりと背を向けた。柊子を振り向きもせずに、大股に歩き出す。
「あ、ちょっと、影虎……!」
 柊子の声を背に受けながら、影虎はひとりごちた。その頬がわずかに紅潮している。
「言えるか、阿呆」
 お前の母親に惚れていた、なんてこと。


 影虎がトーコに出会ったのは、トーコが異世界にある源次郎宅の湯船に出現してしばらくたった時のことだった。
「すげぇだろ? 召喚士が勝手に風呂から出てきたんだわ。ケツの穴まで見られちまった」
 というのが源次郎の弁だったが、影虎は適当に聞き流していた。自分にはまるで関係のない話だと。遠からず源次郎から紹介されたのだろうが、それはそれ。取り立てて己に影響があるとも思えなかった。
 トーコと、出会うまでは。
 その日、影虎は買い物がてら、市場をぶらついていた。
 月に一度定期開催される市場は、物と人でごった返していた。肉や魚の生鮮食品はもちろん、生活雑貨から武具に妖精、果ては闇の品までが溢れている。それらを買い求める者も様々で、家族連れにひとり者、職業軍人に賞金稼ぎ、当然の如く人ならざる者も混じっていた。
 露店で業物の刀のひとつを手に、影虎が思案している時だった。
「はわわわっ」
 悲鳴ともつかない慌てた声が市場に響き、瞬く間に人波が割れた。
 その中央を、白のワンピースを着た黒髪の少女が駆けてくる。ずいぶんと背が低い。
 喧嘩やトラブルなど、珍しくもない。大方、奴隷が逃げたのだろう。
 しかし好戦的な血が疼いて、影虎は騒ぎの方向を一瞥した。
 そして、目を見開く羽目になった。
 少女の白い足が駆ける。
 その背後に、黒い弾丸を連想させる巨大な物体が地面を高速のスピードで泳いでいた。
 影虎は目の錯覚かと思ったが、違う。黒光りした立派な体躯にはキロあたりの値段表示が貼られ、尾は切断されている。血抜きされたカマからは鮮度抜群の赤味が覗き、目はまさに「死んだ魚」のそれを体現していた。
 マグロだ。マグロの群れが地面を走っている。
 しかもあろうことか、ゾンビと化しているようだった。
 市場のあちこちから悲鳴があがる。
「なんじゃ、ありゃ」
 影虎があっけにとられた。
 今までにも様々な光景は見てきたが、まぐろゾンビは初めてだった。しかも、市場で扱うマグロの活きの良さを反映してか、やたらと動きがいい。陸上であることもお構いなしに、弾丸の如く地面を滑っていく。触れるものは物であろうと人であろうと問答無用で跳ねた。にも関わらず、その黒光りのボディには傷一つつかない。刺身にしたら、さぞや美味いだろう。
 しかし、その前をひた走る少女の顔は真剣だ。泣いている暇もないのか、目には涙が溜まっている。その足がもつれる。すぐにも追いつかれそうだった。
「借りるぞ」
 言うが早いか、影虎は刀を掲げた。少女の前に躍り出ると、その小柄な身体を己の背へと押しやる。次の瞬間には、真一文字に薙いだ刀の衝撃波が辺りを襲っていた。
 まぐろゾンビ達の動きが止まる。目を回した隙に、魚屋と漁師達が襲いかかった。
「こいつら、急に動き出して!」
 とまどいを通り越した怒りを滲ませつつ、魚屋達はまぐろゾンビを縛り上げた。
「ありがとう、あんた! 助かったよ!」
 影虎に振ったその手を下げぬうちに、魚屋達は叫んだ。
「さあ、ご覧の活きの良さだ! お刺身にうってつけ! うまいよ!」
 どうやらこのまま往来で商売する気らしい。
 事態の収束を見た影虎が、嘆息する。肩を撫で下ろしつつ、ちらりと後ろを見た。
「……で」
 着物の裾がちょこんと掴まれている。
「いつまでそこにおる気なんじゃ」
 その時は知る由もなかった。それが、源次郎の「トーコ」なのだと。
「やあ、悪かったな。コイツ魔力が半端ないみたいでさ」
 がははと笑い飛ばす勢いで、源次郎はそう言った。
「源ちゃんが置いてくからだよ! マグロさんに触ったら、急に動き出して! 怖かったんだからあああ」
 源次郎の胸をぽかぽかと叩きながら、トーコは抗議した。話を総合すると、トーコが触れたことでマグロが活力を取り戻し、ゾンビ化したらしい。
 それが本当なら、計り知れない魔力の持ち主だ。
 しかし。
 影虎は、源次郎とトーコを見た。既に源次郎が惚れているのがよくわかる。確かに、小柄で可愛らしいトーコは、源次郎の好みだろう。自分が惚れるならば、もっといい女にするのだが。源次郎とはまるで好みが違うらしい。
 影虎はそう思っていた。それからも、多分、ずっとそう思っていた。影虎にとって誤算だったのは、トーコに掴まれていた裾の感触が、いつまでも離れなかったことだ。
 頼りない、阿呆な女。
 けれど気づけば、目を離せなくなっていた。


「でね、影虎ってば教えてくれなかったの」
 クッションを抱いた柊子は、不満げに頬を膨らませた。
 二階のわずかばかりの廊下に、パジャマ姿のまま座り込む。対面に座るイナクタプトは、曖昧に頷いた。
「はあ」
「ひどいよね。教えてくれたっていいのに」
 むすっとした顔のまま、しかし真剣に柊子は告げた。
 それから、閃いたように柊子は顔を上げる。
「イナクタプトは知ってるの? 影虎の好きな人!」
 柊子の視線を真っ直ぐに受けたイナクタプトの金色の瞳が瞬いた。
 確かに、影虎とイナクタプトは旧知の仲である。挙動の不審はすぐに知れたし、当事者の一人のトーコから告げられたこともある。
「源ちゃんが好きなの、どうしよう」
 イナクタプトが答えずにいると、トーコはさらに言葉を継いだ。
「それをね、影虎に言ったら、なんか変なの」
「言ったのですか? それを? 影虎に?」
 己の言葉そのものが影虎の恋心を吐露していると気づいたのは、後のことだ。幸いにしてトーコはそこに思い至らなかったようだが。
 或いは、影虎を気遣って平静を装っているのかもしれなかった。
「イナクタプト?」
 柊子に呼びかけられてイナクタプトは我に返った。
「どうしたの?」
「あ、いえ」
 思い出に蓋をして、イナクタプトは微笑んだ。
「……私は、柊子と話ができたことが嬉しいです」
 言われた柊子が瞬く間に赤面する。
 そういえば、そうだ。
 まともに会話をしたのが、随分久しぶりな気がした。
 クッションに顔を埋めるようにしながら、柊子は言った。
「……ごめんね」
「柊子?」
「なんか、どーしていいかわかんなくて」
 それから、顔を上げてにこりと微笑む。
「あたしも、イナクタプトと話ができて嬉しい」
 柊子の笑みを見たイナクタプトの顔が和らいだ。
 その頃、中川家の居間では、遅々としてギルド登録が進行しないのにイラつきつつ、斎藤さんがお茶を飲んでいた。
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