鬼神法師 酒天!

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 儀式は滞りなく行われた。
 村人たちが桐の箱を山の中腹に置く。村人たちが逃げるように山を降りると、気味悪いほどの静寂が箱の周りに満ちた。
 肌を嫌な汗が流れる。
 虫の声すらしない、この空間に、覚えがあると正太は思った。箱の中で、怯えたさちが正太の着物の裾を掴んだ。
「にい、に……」
 かすかなその声が終らぬうちに、唐突に鳥の叫び声がした。夜にも関わらず、羽ばたいていく。
「おいでった」
 濁ったような声が正太の耳に届いた。そっと蓋をずらして外を見る。その眼が凍りつく。家の高さよりもまだ高い身丈の鬼が、箱をぐるりと囲んでいた。巨大な猿にも似ている。が、その額から生えた角が鬼の証だった。
 猿鬼と呼ぶのだと、村の長老が言っていた。
「おいでった、おんな、にんげんのおなご、おいでった」
「うまい、ほね、にく、やわらか」
 ああうまい、と呟きながら、鬼たちが手を叩いた。
 初めて見る異形、その禍々しさに吐き気がした。
 震える己を叱咤するように、正太が鉈を握り締める。
 猿鬼が箱に向けて手を振り下ろした。正太が飛び出そうとしたその時、箱の前に人影が躍り出た。
 耳障りな音が辺りに響いて、猿鬼の手が止まる。
 その拳を受けている、あれは、棍だ。長い黒髪がゆらりと揺れ、白と黒の山伏衣装がはためく。
「無茶をする」
 あの法師、だ。
「言ったろう、大丈夫だと」
 箱から身を出した正太をわずかに振り返り、法師は微笑んだ。すぐにその笑みは消え、猿鬼へと向き直る。
「人語を解すか、ならば話も通じよう」
 猿鬼の拳を受けたまま、法師は言った。力の拮抗を示すように朱棍がかすかに震えた。
「鬼よ、私は流浪の法師。お前の所業を諫めに来た。里の女を喰うのはもう止せ。村人が皆泣いている」
「お……」
 猿鬼の口が開かれる。法師は言葉を待った。
「おなご、うまい」
「だがもう喰えぬ。お前がすると言っても私がさせぬ」
 猿鬼がじっと法師の顔を見た。
「おなご、うまい」
「知っておる。だがあれは喰うものではない」
「ほね、にく、やわらか」
「今まで飽くるほどに喰うたろう」
「おまえ、じゃま」
「引かぬし退かぬよ。お前達が女を喰うのを止めるまでは」
 猿鬼はしげしげと法師を見た。自分に話しかけてくる人間が珍しいのだろう。しかし、その興味も束の間のことだった。
「おなご、おなご」
 別の猿鬼が箱へと手を伸ばす。その手を、法師の朱棍が弾いた。それが契機になった。
 山中を包むような怒号が、猿鬼達から発せられる。正太とさちは思わず耳を塞いだ。
「ならぬよ」
 法師の声は澄んでいた。
 激昂した猿鬼達が法師を退かせようと襲い掛かる。
「法師さま!」
 正太が叫ぶ。法師が一瞬振り返り、微笑んだ。
 拳を避け、腕を流す。猿鬼の腕に飛び乗り、すぐさま別の鬼へ。法師の後を追うように猿鬼の手が伸びる。捕まると思われた寸前、法師は朱棍でその手を弾いていた。爪にかかった衣が破れる。
「すごい……」
 正太は呟いた。
 猿鬼の攻撃を受け流しつつも、法師は箱の前から退こうとしない。
 守ってくれているのだ、自分達を。
 さちの手をぎゅっと握る。正太は胸が熱くなるのを感じていた。
「さて」
 鬼達が息切れした頃に、法師はようやく一息ついた。
「これで少しは話を聞く気になったかな」
 猿鬼達が疲労でその場に座り込んでいる。にも関わらず、法師はまるで息を乱していなかった。
「ん……」
 猿鬼達を見回した法師が怪訝な顔をする。鬼達はどれも似たような角をしていた。いるべきはずの、長が見当たらない。通常ならば群れの中に一人はいる。大きさも太さも、他の鬼とは別格のはずだ。
「お前達の長はどこだ?」
 法師が猿鬼に尋ねた時、月が翳った。法師が空を見上げる。つられて見た正太は顔色を変えた。
 銀色の毛並みの猿鬼が、宙に浮いていた。瞳に憎しみが溢れている。落ちながら繰り出される拳の狙いは、間違いなく法師だった。
「法師さま!」
 拳を受けた朱棍ごと、法師は吹き飛んだ。生えていた杉の木をいくつかその身体で突き破り、夜の闇へと吸い込まれるように消えた。辺りには、土煙がもうもうと立ち込めた。
「あ……」
 一瞬の出来事に、正太はただ愕然とした。法師の消えた闇から目が離せない。それでも無理矢理に視線を引き剥がして、そこに立っている鬼に目を向けると、身体が凍り付くような感覚を覚えた。
 周りにいる猿鬼より、一回り大きな体躯、銀色の毛並みが月を反射し輝いている。そして、太く大きな角が、禍々しさを凝縮したような形で額から生えていた。
 言葉が出ない。動けない。
 全身総毛立つのがよくわかった。なのに、視線を外せない。外せば、そのまま死ぬような気がした。
 法師の消えた闇を見ていた猿鬼の長の目が、ゆっくりと動いた。傍らにいる正太に、その視線が定まる。
 正太の身体ががくがくと震えた、その時。
「いってーな」
 不快さを隠そうともしない声がした。
 猿鬼達が慌ててそちらを見る。
 正太もつられて声のした方を見た。さちが怯えたように正太の手を掴む。
 法師が消えた、闇の先。そこから声がした。
 正太が目をこらす。
 砕け、折れた杉の木の向こう。夜の暗がりでもまだ土煙が収まりきっていないその場所に。
 割れた幹に、死人のように白い手がかかった。
 太い指で男だと知れる。
 否、正太はその手を、声の主を知っていた。
 あの、法師の。
「たく、だから言ったろーが。猿共が説教聞くわけがねーんだよ。馬鹿か」
 ああそういえばこいつは馬鹿だったと気づいたように言って、法師は――法師の形をした男は立ち上がった。
 衝撃のせいだろう。一纏めにしていたはずの髪は放たれ、夜の闇に溶け込んでいる。山伏の衣装も所々が破け、合間に覗く肌はやはり病的に白かった。まるで命を持たぬ人形のようだ。
 そして――
「法師、さ、ま……?」
 正太は己の声が震えるのを自覚した。
 法師の形をした男、その額に生えているもの。
 角。
 白い角が天を突くような形でその額から生えていた。
「誰がだ」
 法師と呼ばれた男が吐き捨てる。それから、己の身体を眺めて、ああそうかとうんざりしたように息を吐いた。その目も、先ほどの法師のものとはまるで違う。凶悪なまでに鋭かった。口には牙まで覗いている。
「にいに、あれも、おに」
 さちが正太の影に隠れながら、男を指差した。
 慌てる正太に構うことなく、男の唇が歪む。裂ける様な形は、笑みを描いていた。
「聡いな、娘」
 嬉しそうに目を細める、その視線にすら邪悪さを感じる。正太は思わずさちを背後にかばった。
 瞬間、猿鬼達が我に返ったように動き出した。男目がけて走り出す。うっすらと嗤った男の指が鳴る。禍々しいほどに伸びた爪が、重なり合ってきりりと音を立てた。
 男が扇を振るように手首を返す。それだけで、辺りを衝撃波が襲った。爪に触れた猿鬼の身体が綺麗に割ける。ふたつに分かれた身体は、血を撒き散らしながら夜の闇へと消えていった。
「ふん」
 血にぬめった手を、男は満足そうに見つめた。
「憂さ晴らしには丁度いいかもな」
 男が地を蹴る。襲い掛かる猿鬼達に、嬉々として向かっていった。


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