正太はさちの目を手で覆っていた。こんなものを、見せてはいけないと思ったのだ。
自分はといえば、目をそらせずにいる。
これは、退治でも調伏でも、なんでもない。
皮を剥ぎ、肉を裂いて、魂を蹴落とす。
鬼が鬼を殺すとした、きっとこんな感じだ――
「これで終いか」
群れを屍の山に変えてなお、男は物足りないらしい。つまらなそうにそう呟くと、手にしていた猿鬼の頭を投げた。崩れた頭が、無念の表情を顔に貼り付けたまま転がっていく。
「さて」
男は振り返った。
返り血をどっぷりと浴びたその姿こそ鬼の名に相応しい。
「お前はどうする」
正太の横で微動だにしなかった猿鬼の長に、男は聞いた。
「一応聞いてやるぜ。もう人を襲わねーってんなら、見逃してやる。どっかでひっそり暮らすんだな」
男が手を払う。その度に、辺りに血が飛んだ。
「……人飼いの鬼か」
低くしゃがれた声がした。それが己の隣にいる鬼から放たれた言葉だと正太が理解するのに時間がかかった。
言われた言葉に、男が眉を顰める。
「俺様が……なんだと?」
「人に使われる鬼。鬼の矜持もなく、誇りもなく。なれば我ら畜生のほうがまだましというもの。哀れなものよの」
びりびりと空気が震えた。
「にいに!」
さちが正太に抱きつく。男から発せられる怒気が、山を震わせていた。
「てめぇに言われる筋合いはねぇよ」
男の眼が光る。拳に浮き出た血管が、怒りの度合いを表していた。
「人に膝を着いたか、命乞いをしたか。臆病者が」
「てめぇ……!」
怒りにかられた男が地を蹴る。反動で、山の斜面が削れた。
繰り出された男の爪を、猿鬼の長は首をいなしてかわした。伸びた腕を掴む。
「ぐ!」
男が呻く。
「大方小鬼なのだろう。馬鹿め、このままくびり殺してくれる」
そう言って長が力を籠めた時、その手に激痛が走った。
「ぎゃ!」
咄嗟に男の腕を離す。
長の手に、鉈が刺さっていた。
「てめぇ」
男が驚いたように正太を見た。がくがくと膝が震えている。今にも泣きそうな顔で、しかし、この少年はすべきことを成した。
「うぬ、小童が……!」
激昂した長が正太に襲い掛かる。正太は両の目を見開いて、己に迫り来る鬼の姿を見た。
猿鬼の長に掴まれた部分はどす黒く変色していた。痣と呼ぶには深すぎる。伴う痛みは怒りとなって、男を襲った。
「俺様が、小鬼、だと……?」
ぶるぶると男の手が震えた。
凄まじいまでの屈辱が、男の全身を満たしていた。
「ふざけるなああ!」
突き抜けるような声で男が叫ぶ。突き出された拳は勢いのままに長の心臓を抉り、引きちぎった。それを遠くに投げ捨てながら、なお足りぬ気配で男が叫ぶ。
「おまけにこんな餓鬼に助けられるだと!? ふざけるな!」
吼え猛る勢いのままに、男の拳が正太に向かった。
凍りつく正太の視界の中で、硬直するように男が動きを止めた。正太の額に触れる寸前に男の拳が震える。
「ぐ……が……」
男の顔が歪む。
「ち、きしょ……」
やがて糸が切れるように男がその場に崩れ落ちた。
「にいに……」
さちが正太の衣の裾を引いた。
終った、のだろうか。
視界の片隅でぎこちなく朝陽が登るのが見えた。
正太がほっと息をつこうとした時、法師がぴくりと動いた。驚き、後ずさる正太の前で、ゆっくりと起き上がる。
乱れた黒髪で影になって、顔が見えない。緊張で正太の心臓が痛む。
「ふう」
ゆっくりと、法師が息を吐いた。
にこやかに微笑んで、顔を上げる。
「どうやら無事に終わったよう、だね。正太くん?」
穏やかに告げる法師の顔から、角が消えていた。
「あれは私の中にいる鬼でね」
山を降りる道中、法師は言った。
「悪さが過ぎたので、改めるまで共にいることになった」
「退治しないの?」
正太が聞くと、
「しようとしたんだけどね」
どうやら失敗して、と法師は手にした朱棍を眺めた。
「だがこれで良かったのだよ」
法師が呟くように言って、足を止めた。村の姿が遠目に見える。
「私はここまでだ。二人が村に入るのを見届けたら、行くよ」
「なんで? 一緒に行こう。鬼達がいなくなったって知ったら、みんな喜ぶよ!」
正太が言うと、法師は困ったように微笑んだ。
「私もまた、鬼だよ」
ご覧、その証に虫も鳥も逃げてしまったと法師があたりを見回した。不気味なほどの静寂が法師を包んでいる。
「でも……」
正太がなおも言い募ろうとするのを察したかのように、法師は正太の頭を撫でた。
「ありがとう。その気持ちで十分だ」
「法師さま」
「では、ここで」
法師が言う。
まだ何か言いたそうに視線を彷徨わせた正太は、法師の意思の固さを悟った。ならば、と一度視線を地に落とし、顔を上げる。
「名前を教えて」
「私の名は禁忌になっている」
知らないほうが良い、と法師は言った。
「俺には恩人だ」
「正太くん」
諭すように告げる法師から正太は目をそらさなかった。真っ直ぐな視線が法師を射抜く。
「飛車丸」
法師――飛車丸はしばらくぶりに己の名を口にした。最後に呼ばれたのはいつだろう。
「この棍と同じ名だ」
「棍と?」
「これとも長い付き合いでね」
鬼の血をたっぷりと浴びた棍を、飛車丸が見上げた。
「ひしゃまる、さま」
正太が噛み締めるようにその名を口にした。
「ありがとうございました!」
正太がさちの手を引いて歩き出すと、さちがするりとその手を抜けた。
驚く正太を尻目に、飛車丸へと駆け戻る。さちは、背伸びをして朱棍を握る飛車丸の手を握った。
飛車丸の目が瞬く。
「ありがと。ほーしちゃま」
「ああ」
さちの頭を撫でると、さちはくすぐったいような顔をして首をすくめてから、正太の方へと駆けて行った。
「おんにも! ありがと!」
さちが小さな手を振る。それに応えながら、飛車丸は呟いた。
「どうだ? 悪い気分じゃあるまい」
(なにがだ!)
己の内に響く声に、言うほどの嫌悪感がないことを感じ取って、飛車丸は静かに微笑んだ。
「さあ、今度はどこへ行こうか、酒天」
朱棍を片手に踵を返す。視界の片隅で、正太とさちが村へ辿り着いた姿が見えた。それを満足そうに見届けながら、飛車丸は歩き始めた。
飛車丸が立ち去る。その気配の余韻が消えてから、山の虫達がようやく鳴き始めた。
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