鬼神法師 酒天!

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 里を避け、山を分け入るように進んでいると、飛車丸に声をかけるものがあった。
「あんた、法師か?」
 足を止めてあたりを見回しても、人影は無い。鬱蒼と茂る木々と、深く濁った沼があるだけだ。
「いかにも、私は法師だ」
 声のした方向に向けて、飛車丸は答えた。沼に生えていた蓮が音もなく揺れた。
「でも……鬼の匂いがするよう。おっかねぇ」
「悪さはせぬよ」
 ぶるぶると怯えるような声に、飛車丸は微笑んだ。蓮の葉に混じって、河童の頭が見える。濁った沼の色とは対照的に鮮やかな緑。藻がところこどろについた河童の姿は、どことなく愛嬌があった。小さな目がびくびくと飛車丸を見、あいそうになれば慌てて沼へと潜っていく。
 珍しいから声をかけたのだろう。これ以上怯えさせるのは本意ではないと飛車丸が歩き出そうとした時、河童が慌てて声をかけた。
「あんた、退治もするか?」
「ああ」
 飛車丸が足を止める。
「じゃあ、あの山のやつをなんとかしてけろ」
 向かいの山を指差しながら、河童は言った。指の合間に生えた水かきがはっきりと見える。
「そこらにいる妖をぜんぶぜーんぶ殺しちまった。まだ足りねぇみたいで、近頃はこっちにも来るだ。おら、おっかねぇよう」
 河童がぶるりと身体を震わせる。はずみで甲羅に引っかかっていた魚が沼に落ちた。
「鬼か」
 飛車丸が視線鋭く山を睨んだ。朱棍を握る手に力が入った。
「なれば私の仕事だな。行ってみよう」
 河童に告げ、足早に歩き出す。
「違うよう、あれは人間だよう」
 消え入りそうな河童の声が、飛車丸の耳に届いた。


其ノ弐 「鬼姫と呼ばるるヲトメ」


 河童の言葉を裏付けるように、山には死臭が満ちていた。
 不穏な空気に怯えてか、獣の気配もまるでない。飛車丸は一歩踏み入って、その気配の異様さに絶句した。
「これは……」
 あちこちに打ち捨てられた妖怪達の死体は、弔われることなく朽ちている。死肉を食む鳥すらいない。
 立ち尽くす飛車丸の傍らの茂みが動いた。我に返った飛車丸が、咄嗟に朱棍を構える。すぐさま衝撃が飛車丸を襲った。
 掴みかかってきた相手を朱棍で受ける。踵が地面にめり込むのを感じた。力の強さは、相手のほうが上だ。
「く……」
 飛車丸が相手を見た。
 女人が纏うような桜色の衣、深く被られた頭巾からは顔の表情が見えない。否、表情はなかった。代わりに、その顔にも腕にも、肌の全てに木目が走っている。木で出来た人形なのだ。
「からくり! 祈動神か!」
 飛車丸が飛び退く。目の前にいる等身大の人形の身体、その至るところに糸が見えた。
 念糸……!
 聞いたことがある。熟練した術者が凝らした念で操る人形があると。その祈りのままに動き、悪鬼を挫く、その使い手がいるのだ。
 ならば。
 飛車丸が周囲に目を走らせた。人形だけを相手にしていても意味がない。操っている術者を倒さねば。
(馬鹿、危ね……!)
 酒天の声に気づいた時には遅かった。人形が飛車丸の眼前に迫る。鋭く研ぎ澄まされた指先が飛車丸の身体を裂く。咄嗟に背後に飛ぶ。そこに地面はなかった。
 彼は崖下へと転落していった。


 囲炉裏の温かさに促され、うっすらと目を開ける。見知らぬ天井が飛車丸を迎えた。
 藁葺きの民家である。年季の入った柱は、それでもよく手入れされていた。煎餅のような布団に横になったまま視線を巡らせると、飛車丸の服が干してあるのが見えた。
「ここは……」
「気づいたけぇ」
 老婆の皺枯れた声が穏やかに飛車丸を迎える。囲炉裏の炎、その向こうに、ちょこんと正座している小さな姿があった。
「あんた運がええ。あそこは鬼姫様の山だで。他の山なら、とうに獣か妖に喰われちょる」
 笑いながら老婆が言った。飛車丸が身を起こす。その胸に、布が巻かれていた。そこにじんわりと血が滲んでいる。崖に転落する際に、人形に受けた傷だ。
「鬼姫?」
 飛車丸が呟くと、老婆が頷いた。
「んだ。鬼姫様じゃ。あっこの山の庵におっての、鬼を払ってくださる」
「姫……とは、まさか女人が?」
 飛車丸は驚いた。では、先ほどの人形を繰っていたのは女なのか。
「んだ」
 老婆は再び頷いた。
「あんたも法師様なのじゃろ。ほれ、粥じゃ」
 囲炉裏にかけられていた鍋から、老婆が粥を掬う。どこに米があるかもわからぬほどの薄さだった。混じる木の根がやけに多い。
「いただきます」
 己の内で粥を罵倒する酒天の声には耳を貸さず、飛車丸は手を合わせ、頭を下げた。老婆が満足げに頷く。
 ゆっくりと粥を噛み締める飛車丸を見ながら、老婆はぽつりと呟いた。
「あんた、旅の法師様か」
「ええ」
 諸国を流離っておりますと飛車丸の答えに、老婆が俯く。
「あの娘も、連れて行っちゃくれまいかの」
「あの娘……?」
「山吹。ああ、今は鬼姫様じゃった」
 あの子はもうここにおらんほうがええ、と老婆は言った。
「なにか、事情がおありのようだ」
 飛車丸が姿勢を正すと、老婆はとまどったように視線を彷徨わせた。戸口を一度見やり、まだためらうようにして、それから、ようやく口を開いた。



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