鬼神法師 酒天!

  表紙



 老婆の話を反芻しながら、飛車丸は山の入り口に立った。
 気配が、まるで他の山とは違う。立ち込める異臭、渦巻く殺気。漂う異様さで、人でなくとも避けるに違いない。それでも、初見では感じなかった物悲しさを、飛車丸は感じていた。
(行くのかよ)
「酒天?」
 己の内から響く声に、飛車丸が答えた。
(放っておきゃいいじゃねぇか、面倒くせぇ)
「そういうわけにもいくまいよ」
 率直な酒天の物言いに苦笑する。それが酒天には面白くないらしい。拗ねたような感触がした。
「私が駄目になった時は、頼むよ」
 独り言のように呟いて、それから、飛車丸は歩き出した。
 山の中腹まで来た頃だろうか、突然視界が開けた。鬱蒼と茂っていた木々が、途切れている。様々な草が、膝丈まで伸びていた。周囲の雑草との成長具合の差から、元は手入れされていたのだと伺い知れる。飛車丸は、視線を巡らせた。視界の片隅に、ぽつりと立つ庵が見える。
「あれか」
 歩を進めようとして、違和感に気づいた。
 庵の前に、大きな箱がある。
 前に立ち寄った村で見た、生贄を捧げる箱に似ている。否、それよりも数段大きかった。大人一人、ゆうに入れるだろう。
「これは……」
 飛車丸が近づく。その途端、箱の蓋が勢いよく弾け飛んだ。中から、桜色の法衣を纏った人形が姿を現す。
「性懲りもなく来たか、鬼め!」
 箱の裏から、声がした。間もなく、娘が姿を現す。
 鮮やかな髪の色、その肌の白いこと。飛車丸を睨みすえる瞳は赤く燃え、指にも頬にも血がこびりついていた。
「山吹殿か」
 人形の攻撃を朱棍でいなしながら、飛車丸が呟く。己の名を呼ばれたことで、山吹は動きを止めた。つられて、人形も止まる。
「鬼風情が、なぜ私の名を知っている」
「村で聞いた」
 飛車丸は答えた。
「吾郎殿の母御が心配しておった。お主の先行きを――」
 その名を聞いたことで山吹の目の色が変わった。飛車丸の言葉は、彼女を素通りしたようだ。ぶるぶると震える指が、迷いを振り切るように動く。
「待て、私は話を……」
「黙れ!」
 飛車丸はなおも説得を試みた。人形の爪が朱棍に食い込む。爪が腕を掠め、頬が裂けても、飛車丸は攻撃に転じようとはしなかった。
 慣れている。
 朱棍で攻撃をいなしながら、飛車丸は思った。
 鬼も、人間の説得になど耳を貸さない。ましてや、相手は人間の娘なのだ。親しき者を失った怒りで、我を忘れている。
 その叫びも涙も、ずっと遠くに置き忘れていた懐かしいもののように思えた。
 良くも悪くも人間なのだ。微笑ましい。
 飛車丸がそう思った時、人形が大きく拳を振るった。身構える間もなく、その拳が飛車丸の身に沈む。吹き飛ばされるように、飛車丸は人形の入っていた箱に叩きつけられた。あたりに土煙が巻き起こる。
「やった、か……?」
 山吹が歩み寄る。すぐに、彼女は足を止めた。
 今までに感じたことのない気配が、そこからする。全身が粟立つような、冷えた気配。生物としての本能が警鐘を鳴らし、逃げるべきだと叱咤する。
「いってえええ」
 呻くように法師が起き上がった。声は同じなのに、まるで口調が違う。
 目を見張る山吹の前で、法師は起き上がった。
 衝撃で放たれた黒髪がゆったりと舞う。山吹を見つめる瞳は険しく、月のような色をしていた。そして、その額に生える――
 角。
 山吹が唇を噛み締める。指を繰るのは早かった。
「やはり鬼か!」
 酒天に向けて人形が駆ける。その爪を酒天は避けた。わずかに掠った衣が裂ける。
「人に化け、人を食らう! よもや法師に化けるとは……!」
 山吹が言い募った。絶対に野放しにはしておけぬ。 
「悪鬼! 成敗!」
「だから誤解だっつー……!」
 酒天が人形の拳を受けた。桜花の浄化された拳が皮膚を焼く。酒天の、否、飛車丸の。
 酒天の目がわずかに細められた。
「それ見ろ、神木に焼かれる、貴様は鬼だ!」
 山吹の勝ち誇ったような声に、遠い記憶が呼び起こされる。あの時も人々は口々にこの男を鬼だと罵った。悲嘆に暮れた飛車丸の気持ちが、中にいる酒天には嫌でも伝わってきて、辟易したものだ。
 人というのは、どうしてこうも。
 酒天が牙を噛み締める。
「うるせぇ!」
 渾身の力を込めて桜花を床に叩きつける。酒天の手に押さえられた人形の首が弾け飛んだ。驚いた山吹が動きを止める。
「鬼だ、ああ、鬼だ。それがなんだ」
 酒天が桜花を踏みつけた。桜の木から成る身体が音を立てて割れていく。
 呆然とする山吹の前で、酒天は指の関節を鳴らせた。
「人の腸を啜り、血を飲む鬼だ。徒に鬼を焼き、朽ちずとも打ち捨てる、お前と同じだ」
 喰わない分お前の方が性質が悪い、と酒天は山吹を指差した。
「死ね……!」
 山吹がありったけの憎しみを込めて酒天を睨み据える。
 その足元にも、鬼の残骸が転がっていた。山中、死臭だらけだ。おまけに、この女はそれでもまだ足りないらしい。袂から札を出し、構えてみせる。
 やるか、と酒天が構えた時だった。
 ふ、と二人の横で気配がした。二人同時にそちらを見やる。
 乳白色の、巨大な身体をした鬼がそこにいた。
「貴様は……!」
 額に生える三本の角を見て、山吹が顔色を変えた。構えていた札を投げつける。貼りついた札が鬼の皮膚を焼く。咆哮と共に伸ばされた手が山吹に向かった。今とばかりに山吹が腕を掲げる。倒れていた人形が、首を失くしたまま立ち上がる。執念を形にしたようなその姿に、酒天が眉を顰めた、その時。
「あ、あ……」
 濁った声がした。白鬼のほうから。
 白鬼は知能の低い鬼だ。話すなど珍しい。視線を移した酒天は、見た。
 乳白色の鬼の額に、何かが浮かび上がる。初めは、ぼんやりと。徐々に、はっきりと。輪郭を浮かび上がらせた男の顔から、その声は発せられていた。
「おっか、ねぇ、よう」
 男の声は曇っていた。
「いたい、よう」
 山吹の全身から汗が吹き出る。
「吾郎さ……」
 震えるような呟きが、少女の口から漏れた。



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