それが、山吹が白鬼を仕留められない理由だった。
あの人形が白鬼に劣るわけがない。どちらかといえばたやすく勝敗は決するだろうに、あの声に手を緩めた。愚かな女。己がいかに傷つこうとも、再び人形を繰ろうとはしなかった。
まるで糸が切れた人形のように放心した山吹を、ここまで引っ張ってきた。
焚き火が爆ぜる音がする。炎を見つめたまま、山吹は座っていた。その瞳から、枯れることなく涙が零れ出る。
鬱陶しい。
酒天は嘆息した。
女の涙は見慣れている。昔、都で飽きるほどに見た。人に化け、逢瀬を楽しんだことすらある。恐怖、絶望、未練……愛執。山吹の涙は、そのどれとも違う気がした。
「かーっ」
がりがりと酒天が頭を掻いた。とうに意識を取り戻しているはずの飛車丸は、表に出てくる気配を見せない。自分に丸投げする気だ。それがまた酒天の憂鬱さに拍車をかけた。
どうしろと言うのだ。
「鬱陶しい。いい加減に泣き止め」
耳を穿りながら酒天が言った。
「黙れ、鬼が」
鼻を啜りながらも山吹が言い切る。話しかけるのではなかったと酒天は思った。
「あれも鬼じゃねーか」
さっさと殺せと言うと、山吹の身体がびくりと揺れた。
「あれは……吾郎さ……」
「とっくに死んでる。わかってんだろが」
両膝を抱いた山吹の腕が震えた。指先が衣に食い込む。
「ついでに里におりて村人も皆殺しにしちまえ。元を辿ればてめーを山に追いやったあいつらのせいだ」
妖共はいいとばっちりだと酒天は言った。
「人は殺さぬ」
「なんでだ」
「……人は、人を殺さぬ」
じゃあ巷に溢れてるのはなんだ。人の皮を被った鬼かと揶揄しかけて、酒天は口を閉ざした。山吹の目から、涙が消えている。揺らぐ炎をじっと見つめる瞳には、確かな意思が宿っていた。
「人は、人を殺さぬ。だから、私は人を殺さぬ。だから、私は」
人だ、と山吹は言った。自分に言い聞かせているようにも見えた。
鬼と呼ばれ山に追い籠められてもなお、それだけが山吹の拠り所だった。そんなこと誓わんでも、山吹は人じゃないかと笑った吾郎はもういない。
「お前は鬼だな」
酒天の角を見ながら、山吹は言った。
「俺様は鬼だが、この馬鹿は人だ」
酒天が飛車丸の身体を指差した。法衣の合間から見える当て布に、じんわりと赤い血が滲んでいる。所々が破れた法衣と朱棍を、山吹はまじまじと見た。
「朱棍の法師、飛車丸か」
「知ってんのか」
「私にからくりを教えた僧から聞いたことがある。自分が会うとは思っていなかったが」
そうか、と一人呟いて山吹は立ち上がった。
「行かねば」
「どこへ」
「吾郎さを屠りに」
山吹が空を見上げる。血のように赤い月が、滴るような三日月となって浮かんでいた。
「お前の言う通りじゃ。もう終わりにせねばならん」
人形の修復が必要だと、山吹は庵に向かった。白鬼はどこかへ立ち去った後らしい。戦いの残骸だけがそこにあった。白鬼が倒した木々を、山吹は名残惜しそうに見つめていたが、やがて庵へと姿を消した。
ややあって、中に明かりがともると、「入れ」と破れた障子の合間から声がかかる。酒天が中に入ると、すでに部屋の中で人形を繕っている山吹の姿があった。
人形の首をつけ直している。折れた木を繋ぎ合わせ、念を籠めた糸で縫ってやる。折れ目から新たな芽が生え、首を繋げていった。
「……きっと、私には、出来ぬ」
山吹がぽつりと言った。
酒天の眉が寄る。
「だから貴様がやれ」
山吹は言った。
「貴様が法師だと言うのなら」
手にした針を震わせながら言った。
「おい、俺は……」
(聞いておきなさい、酒天)
なにか言おうとした酒天を、飛車丸が押し止める。酒天は歯噛みした。
山吹が告げる、その声も震えていた。
「頼む。苦しませないでやってくれ……」
固く閉じた眼から、新たな涙が流れるのを見た酒天は、面倒そうに視線をそらした。山吹の庵、朽ちかけた部屋の片隅に、真新しい衣がかかっているのが見える。
縫いかけの白無垢。
純白のそれを乱暴に掴むと、酒天は山吹の頭上に投げた。衣が香の匂いを放ちながら、やわらかく落ちる。
ふわりと衣をかけられた感触に、山吹が顔を上げる。
「使っちまえ」
それでもう未練はないだろうと背を向ける。山吹はただ黙って、衣の裾を掴んでいた。
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