鬼神法師 酒天!

  表紙



 黒雲の合間から赤い月が覗く。空を見るのは久方振りだ。吾郎が死んでからこの方、昼も夜も関係なく妖を屠ってきた。
「あいつらから見れば、私が鬼か」
 山吹が自嘲する。
 庵の傍らにある洞穴、白鬼はよくそこを訪れた。
 だから待っている、立っている。再び合間見えるその時を。
「お前は私を食いたかったのだな」
 山吹が柔らかく微笑む。その視線の先に、黒い闇に浮かび上がる白鬼の姿が見えた。山吹の姿を認めた途端、額に吾郎の顔が浮かび上がる。山吹は痛ましそうにそれを見つめた。
 これで会うのも最後だ。
 指を繰る。山吹の意思に応えて、人形が動き出した。
「はじめから、こうすれば良かった」
 山吹は言った。
「狂気は、心地良いな。あのまま狂っていたら、どんなに幸せじゃったろう」
 妖を憎み、八つ当たるように殺してまわった。迷いなどなかった。寝食を忘れ、思い悩む暇もないほど、憎しみに浸った。憎み、憎み、心を真っ黒に塗りつぶして、ただ一途に――。
『人の腸を啜り、血を飲む鬼だ。徒に鬼を焼き、朽ちずとも打ち捨てる、お前と同じだ』
 あの鬼の言葉が蘇る。
 言われた瞬間、納得する自分がそこにいた。
『山吹は人じゃ』
 吾郎の声が聞こえた。
「あ、あ」
 濁っている。
「こわ、い、よう」
 人形が身構える。山吹はうっすらと微笑んだ。
 次の瞬間、人形が地を蹴った。白鬼の腕をくぐり抜け、その胸を抉る。周囲に鬼の絶叫が響き渡った。
 きっと睨みすえた山吹が再び指を繰る。白鬼が頭を垂れ、吾郎が前面に押し出された。
「やまぶき、やまぶき、いたいいいい!」
 悲鳴に山吹の手が止まる。
 歪んだ表情に、振り切れない思いが溢れていた。
「馬鹿!」
 酒天が叫ぶ。
 我に返った山吹が指を繰る。白鬼の爪は、すんでのところで人形に受け止められた。その腕の上を酒天が駆ける。爪が閃光のように光り、白鬼の腕を鮮やかに切り落とした。再び、咆哮があたりに響く。
 酒天は手を緩めようとはしなかった。それが飛車丸の命でもある。
「や、まぶきいい!」
「うるせぇ!」
 酒天が吾郎に爪を振ろうとした時、酒天の頭上を山吹が飛んだ。酒天の動きが止まる。山吹はそのまま、白鬼にむかっていった。
「吾郎さ、吾郎さ」
 山吹は呼びかけた。優しい声音だった。
 鬼の額に今も浮かび上がる吾郎の顔を隠すように、ふわりと衣を被せる。
 白無垢。吾郎の隣で着るつもりだった。
 縫っていることさえ告げられなかった。
「これでもう怖くねぇだ」
 一度だけ、頬を撫でた。山吹の目に涙が滲む。
 次の瞬間には、山吹は白鬼の頭を蹴っていた。軽々と身を空に躍らせて、叫ぶ。
「やれぇい、鬼よ!」
「承知!」
 酒天の手に蒼い焔が湧き上がった。長く伸びた爪が鬼を引き裂く。吾郎の悲鳴も混じったであろう鬼の絶叫を、山吹は耳を塞ぐことなく聞いていた。


「礼は言わぬ」
 やがて迎えた朝焼けの中で、山吹は言った。
 酒天を体内に戻した飛車丸が、白鬼の身体を埋め、髪を一つに纏めて縛り上げる。その最中のことだった。
 もとより期待してのことではない。飛車丸が微笑むと、山吹は毅然と立ち上がった。
「貴様は鬼だ」
 山吹は告げた。飛車丸を睨む視線は険しく鋭い。
「今は良くとも、いずれ己が内の鬼に負け、人を食らう。その時には、私が滅してやる」
 飛車丸の目が丸くなった。それから、ふわりと微笑む。
「そうですか」
「そうだ」
 山吹が頷く。では、と立ち去りかけた時だった。
「鈍いと言われるだろう」
 唐突に言われた言葉に、飛車丸が振り返る。山吹が眉を怒らせ目を細めて飛車丸を見ていた。
「はい……?」
「貴様を放っておいては、いつ何時鬼に呑まれるかわかるまい」
 飛車丸は山吹の言葉を思案した。意図するところがわかるようなわからないような。
「つまり……」
「目付け役が必要だ」
 山吹が真剣に告げる。今度こそ、飛車丸はその意図を完全に把握した。
「共に行くと?」
「そうだ」
 桜花を入れた行李を軽々と背負い、山吹が早足で歩き始めた。呆気にとられて後姿を見つめる飛車丸を振り返り、「遅い!」と叱咤する。
(かわいくねぇ女)
 飛車丸の中で酒天が吐き捨てた。その声に、飛車丸が苦笑する。
「まあ、いいじゃないか。山を下りる気になったのなら」
「何を笑っている」
「いえ、別に」
 飛車丸が歩き出す。見送るように、吾郎の墓にかけられた白無垢の切れ端が揺れた。


【其ノ弐・終】

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