鬼神法師 酒天!

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 竜の体から零れた水滴が、ぽたりと酒天の頬に落ちる。
「ぐ……」
 あまり巨大さに、酒天の顔が歪んだ。
 竜が口を開いて酒天に向かう。酒天が両腕でその牙を掴んだ。
「おおお!」
 吼えるその身が押されて行く。体重を支える地面が削られていった。
「俺様が竜如きに……!」
 酒天が竜の牙を持つ指に力を籠めた。思うように力が入らない。足も腰も今にも砕けそうだ。
 この、非力な人の体めが。
 酒天は内心呪詛を吐いた。
 力無きこの身が恨めしい。
「に、ぎぎ……」
 酒天が呻く。足がまた少し後方へと押された、その時。
(負けそうかい?)
 内より涼やかに響いた飛車丸の声が、酒天の理性を奪った。
「だ、れ、が、だあ!」
 一言一言噛み締めるように叫んで、酒天は渾身の力を放った。牙を折られた竜が咆哮する。その喉笛を、酒天の爪が切り裂いた。大口を開けたまま、竜の首が落ちる。身体は瞬く間に水へと還り、川の流れへと消えていった。
「な……!」
 斎が驚く。
「ほらよ! てめぇの竜だ!」
 酒天が落ちていく竜の顎を掴んだ。まだ形の残るそれを、斎へ向けて投げる。
 水圧を伴った竜の頭が、斎を直撃した。
「く!」
 手を十字に組んだ斎がそれを堪える。水飛沫に目をこらし、顔を上げた時には、酒天が眼前に迫っていた。
「まだまだだったな!」
 言うが早いか、酒天が斎に拳を振るう。斎が傍らの木に打ちつけられた。体を受けた木がしなる。衝撃で、無数の葉が辺りに舞った。
「さて、と」
 息を整えながら、酒天が木からずり降ちた斎に近づく。たかがこれしきのことで肩で息をしている己が情けない。そして、こんな状況に追い込んでくれた斎を、酒天はまるで許す気がなかった。
 飛車丸を討とうとした相手でもある。情けは無用だと思われた。
 どうやって殺してくれようかと、酒天が歩を進める。斎は木にもたれつつ呻いていた。その呻きが心地良い。呪詛ならば尚良い。断末魔はせいぜい盛大に願おう。
 酒天が指を折りながら笑みを浮かべる。と、その眼前に山吹が立ちはだかった。
「なんだ」
「勝負あったろう」
 山吹は真っ直ぐに酒天を睨み据えた。その背後には、すでに桜花が立っている。
「それがどうした! 邪魔すんじゃねぇ!」
 酒天が吼えた。一歩も引くことなく、山吹が応じる。
「これ以上は無用だと言うのだ! 無粋な鬼めが!」
 山吹が指を繰ろうとした瞬間、酒天が目を細めた。山吹の背後にいる斎を指差す。
「そいつはまだやる気だぞ」
「え?」
 酒天の言葉に山吹が振り返る。木にもたれたままの斎は、震える指で印を結んでた。
「まいった、な……まさか、女人に助けられる、とは」
 その口が笑っている。召喚された竜が、行き場なさげに斎の周りを飛んでいた。
「勝負に横槍入れやがって。無粋なことしたのはテメェだ、馬鹿が」
 酒天が山吹に言い捨てた。言われた山吹が激昂する。
「な!」
「いや、助かったよ」
 飛車丸の言葉が口からついて出て、酒天は慌てて口を押さえた。
(返り討ちにあうところだったろう? 酒天)
 飛車丸の言葉に、酒天は赤面した。その通りだ。もう勝つ気でいた。
 斎の呻きが心地良いと――あれは己を屠る竜を呼んでいたと言うのに。
「そういうことだからよ! 俺はもう出ねーぞ! いいな!」
 真っ赤になって己に怒鳴る。山吹にはそれが随分不毛な光景に思えた。
 酒天が山吹達に背を向ける。逆立っていた黒髪が次第に落ち着いて、首が一度だけかくりと落ちた。
 それから。
「……だ、そうだ」
 ゆっくりと、そう言いながら飛車丸は振り返った。
 瞬間、斎が支えを失ったかのように崩れ落ちる。
「おい!?」
 山吹が駆け寄る。斎はがくがくと膝を震わせながら笑ってみせた。その口の端にも血が滲んでいる。
「は、は……気が抜けた」
「腰だろう」
 抜けたのは、と山吹が容赦なく告げた。 
「山吹殿、斎殿の手当てを」
 飛車丸が告げる。言われるよりも早く、山吹は斎の衣を捲っていた。

 川の水が流れる音が絶え間なく耳に届く。対岸で虫が鳴いているのだろう、水音に混じってかすかな鳴き声がした。
 山吹は斎の傷を見て顔を歪めた。出血こそ少ないものの、内出血でどす黒くなった体は無残なものだった。酒天の拳の痕が、はっきりとその体に刻まれている。
「あんた、なんでアイツと一緒にいるんだ?」
 痛みに顔を顰めながら、斎が問うた。
「知らん。成り行きだ」
 言いながら、山吹が薬草を練る。気休めとしか思えない。
「ずっと一緒にいるのか?」
「まさか」
 なぜそんなことを問う、と山吹は訊ねた。
 斎が途切れがちな息の中、答える。
「……わからなかったか? 口伝が残ってたんだ。もう御伽噺に近かったが」
「だからなんだ」
「もう巷にはあいつに関する物も残ってない。代々の長が、かろうじて次代に伝えてる 」
「だから」
 斎の意図を掴みあぐねて、山吹は苛立った。
 斎が静かな目線を飛車丸に向ける。その目には憐憫ともとれる情が浮かんでいた。
「何年――生きてると思う」
「えっ」
 言われた言葉の意外さに、山吹は絶句した。
「どういう……意味だ?」
 その表情を見た斎が「なんでも知ってるってわけじゃないんだな」と呟く。
「私は――ただ」
 借りがあってという言葉を飲み込む。
「鬼をその身に封じた法師である、とだけ」
 山吹は無意識に衣の裾を掴んでいた。なぜだろう、胸が痛い。
「そこに続きがある」
 斎は言った。
「法師は人の身ながらに鬼になった。鬼の寿命で生きるようになったんだ。恐らく、何十――何百年も、余計に」
 斎が飛車丸を見やる。飛車丸は、夜空を眺めていた。星の瞬きに耳を貸しているようにも見える。裂けた衣のところどころに血が滲んでいた。その合間から覗く腕。
 山吹は思い出していた。
 飛車丸の肌の色、それが酒天に変わる時には失せていることに。青白く、細く。あれは、まるで、ではなく。
 死人なのだ。本当に。
 内なる鬼の力によって生かされているに過ぎぬ、仮初の命。
「滅してやるのが優しさかと思ったんだが」
 斎が深く息を吐いた。その身体がうんと伸びをする。
「まいったなあ、強い!」
 飛車丸にも聞こえるよう声を上げ、斎が立ち上がった。まだ手当てが、と言おうとする山吹を掌で制し、斎は腰に手を当てた。
「まだまだ修行がたりんな。恥ずかしい話だ」
 そう言って鼻をこする。率直な物言いに、飛車丸が微笑んだ。
「俺も行くぜ」
 斎が飛車丸を真っ直ぐに見ながら告げた。
「なに?」
 飛車丸の目が瞬く。
「あんたの側にいれば面白そうだ」
「貴殿の家は」
「斎だ。そう呼んでくれ」
「……斎殿」
「殿なんてやめてくれ。ただの斎で。竜宮の家なら、心配無用」
 斎の言葉を裏付けるように、その横に竜が現れた。斎が何事かを囁くと、嬉しそうに目を細め、空に登りながら消えてゆく。
「今、言付けた」
 その後を見上げもせずに、斎は言った。
「我、手配の法師を見つけたり。これより追尾すってな。ほら、帰らなくていいだろ?」
 呆れたような飛車丸の前で、斎はにやりと笑ってみせた。

【其ノ参・終】

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