空海という男の庵は、町外れの山中にあった。
「あの町にも、時折鬼が出るのです」
山林の中、真っ直ぐに伸びている石段を登りながら、空蝉は告げた。麓から伸びている石段は、先端は霧に覆われている。歩いても歩いても終わりのない様は、天まで続いているかのようだった。
「あの札は」
飛車丸が問うた。
「空海様が私でも鬼を払えるよう、くださいました」
答える空蝉の顔を、飛車丸はじっと見た。視線に気づいた空蝉が、視線を上げる。
「なにか」
「いや、よく似ている」
空海殿の幼い頃に、と飛車丸は告げた。
「あの子が赤子の頃から知っている」
飛車丸が懐かしそうに目を細める。空蝉がすこし不思議そうな顔をした。
「これはただの躯だと空海様はおっしゃっていました」
だから誰に似せるでもないのだと。
「人形遣いが作る人形には、作り手の本質が映る」
山吹が言った。
「私にからくりを教えた僧が言っていた」
だから、と空蝉を見る、その視線が険しい。
「お前が空海殿が作った人形ならば、ごく自然なことだ」
中にいるのは鬼か、と山吹が毒づく。
「え?」
斎が慌てて空蝉を見やった。無表情な少年はやはり顔色を変えることなく、歩みを止めた。
「着きました」
空蝉の言葉を受け、霧が晴れる。
「まやかしの霧か」
飛車丸が辺りを見渡しながら呟く。空には青空が晴れ渡り、霧の余韻もない。
「空海様は静謐を好まれますゆえ、客人以外は辿り着けぬよう、私が」
空蝉が言った。その視線が、ふと下げられる。淋しげに、なにか言いかけた唇は、別の言葉を紡いだ。
「飛車丸様、どうぞ」
言いながら空蝉が戸を開ける。そこに、空海と呼ばれた男が居た。
男は老いていた。
体に刻まれた皺は深く、皮膚は乾いていた。剃りあげられた頭にも、それは顕著に現れていた。長く伸びた眉は白く、その奥から覗く目だけが、かすかな光を宿していた。
「長らくご無沙汰しておりました」
空海が震える指先を床に着け、飛車丸を迎えた。
「空海様!」
その姿を見た空蝉が声を上げる。慌てて空海に駆け寄った。その体を支えるように手を添える。
「横になっているようにと、薬師が」
この少年にしては珍しく情を滲ませた声だった。それを聞いた空海がくしゃりと微笑む。
「大事な友が来たのだよ、空蝉。寝ているわけにはいくまい」
「空海様……」
呟いたのは、山吹だった。
声に気づいた空海がそちらを見やる。途端に、山吹の目から涙が零れだした。
「ああ、あの村の。あれから息災でしたか」
空海は微笑んだ。穏やかな声だった。
「空海様」
もう一度名を呼ぶと、もう声にならなかった。
よろめくように近づいて、山吹が空海の手を取る。そのまま泣き崩れる彼女の頭を、空海は何度も撫でていた。
「苦労されたか」
山吹が頭を振る。人形がいたから生きてこれた、そう伝えたくとも、嗚咽で声が出なかった。ただただ山吹は頭を下げた。それしか出来なかった。
「山吹殿」
飛車丸が山吹の肩にそっと触れた。
「まずは空海殿を床に」
「ああ」
山吹が涙を拭う。立ち上がろうとする空海を、飛車丸が支えた。
「これは」
とまどう空海に、構わぬと告げる。
「随分と老いた」
「そういう貴方は変わりなく」
空海の言葉に、飛車丸は静かに微笑んだ。
少し休みたいと山吹は庵の外に出た。外の風が心地良い。
まさかまたあの僧に、生きて会えるとは思わなかった。
山での日々を思い出しては、涙が浮かぶ。袖で目を拭うのを何度か繰り返した時、庵の入り口に斎がいることに気づいた。
「……何か用か」
「別になんも」
斎が言う。
「俺はあの人にはなんの縁もないわけだし」
「麓の祭りにでも行って来い」
「一人じゃつまらん」
竜宮の時には弟と一緒だったのだと斎は言った。
「山吹ちゃん、兄弟は?」
「母一人、子一人だ。母は死んだ」
「そっか」
斎が頷く。じゃあ、と伸ばされた腕に、山吹は絡め取られた。
「これから俺がお兄ちゃんな!」
ふざけるなという山吹の叫びは、木霊となって辺りに響いた。
「随分と賑やかな」
真っ白な布団に横たえられた空海が、その残響に笑みを浮かべた。
「申し訳ない」
飛車丸が頭を下げる。
「いやいや」
空海がそれを制した。
「貴方が、誰かと会いに来るのは初めてだ」
それが嬉しい、と空海は言った。
「初めて出逢ったのは」
「お主が生まれた日。たまたま通りすがった私が、名付け親になった」
「それから」
「毎年、尋ねたな。お主はどんどん成長して」
「貴方は変わりなく」
いつからだろう、老いぬ飛車丸の身を、村人が不審がり始めた。鬼を倒した恩人として迎えたのも初めのうち、やがて向けられる視線に、自然、飛車丸の足は遠のいていった。それでも、空海が生まれた日にだけは、その近くを通った。村はずれのこの庵、そこで必ず空海は待っていた。
「葛藤がなかったと言えば嘘になる。それでも貴方にお逢いしたかった」
「ありがとう、空海」
飛車丸は告げた。
「お主の変わらぬ対応が、どれだけ私を救ったかわからない」
やがて村は発展を遂げ、町へと変貌した。
それでも変わらず果たされた逢瀬。
老いてゆく空海、時を止めたままの飛車丸。
「……つらい運命をお持ちだ」
空海が言った。溜息をつくような声だった。
「貴方を縛るものが何か、ついぞ貴方は私に告げなかった。私では不足なのだと、いつも歯痒く」
そしてからくりを知り、人形を遣うようになった。それを初めて見せた時の飛車丸の表情はなんとも言えないものだった。ただ息災を祈り、飛車丸は去った。初め、空海は武勇伝を聞かせた。このからくりで鬼を討ったのだと誇らしげに。それから年を経るに従って、出会った鬼の話を淡々とするようになった。いたずらに町を焼く鬼を相手にして片腕を無くしたこと、それでも口と手でどうにかからくりは作れること。飛車丸はそれらを黙って聞いていた。
どんなに腕を磨こうとも、悟りに近づこうとも、飛車丸が空海に秘密を打ち明けることはついぞなかったのだ。
「いいや」
飛車丸は首を振った。
「私は私のままでお主に会いたかった。これは私の我侭だ」
空海は微笑んだ。初めて笑った赤子の時の表情に似ていると飛車丸は思った。
「貴方に、頼みたいことが」
空海が手を打つ。あわせて、襖を開けて空蝉が姿を現した。
「この子を、お願いしたい」
空蝉が畳に手をつき、ゆっくりと頭を下げる。
「空蝉と申します。もうお気づきでしょうが、あれは私の作った躯。中にいるのは」
「腐鬼です」
空蝉が視線を上げる。
虚ろな瞳が、無感動に飛車丸を写した。
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