鬼神法師 酒天!

  表紙



 この世の万物に意味があるならば、意味の無い最たるものの象徴と称されたのが腐鬼である。
 産まれ落ちたその時から、触れたあらゆるものを腐らせる。呼気で鳥は落ち、歩くだけで地は腐る。やがて腸から己をも腐食し、一人腐り落ち行くのが腐鬼である。
 空蝉も、その一人だった。
「腐鬼がゆえに、私が作った躯も朽ちます。時折、手を入れてやらねば」
 空海が不安げに告げた。己亡き後の空蝉を案じているようだ。
「山吹殿がおる。安心なされ」
 飛車丸が言う。空海の顔に笑みが広がった。
「ああ、あの子が」
 立ち寄った村で人形を教えた少女。その手のぬくもりの余韻がまだ残っていた。
「桜花という立派な人形を繰っておる。良い弟子をお持ちだ」
 空海が目を細めた。
「今日は良き日。旅立つには、良き日だ」
 飛車丸がその手を取る。
「生れ落ちた私を手に取った貴方に看取られて行く。なんと至福か」
「空海……」
 飛車丸が声を震わせたその時、庵の近くで凄まじい爆音がした。
 空蝉と飛車丸が顔色を変える。
「鬼か!」
 駆け出そうとした空蝉の腕を、飛車丸が掴んだ。抗議しようと振り返った空蝉が言葉を失う。飛車丸が掴んだ腕の力は緩い。にも関わらず、穏やかな気配の中に、有無を言わせぬ迫力を伴っていた。
「お主は空海殿の、傍に」
「飛車丸様」
「鬼は、私が」
 飛車丸が朱棍を手にする。歩き出しながら、彼は言った。
「友よ」
 空海が閉じかけていた目を開く。
「出来るなら、最後まで知られたくはなかった」
 その言葉が終らぬうちに、庵の半分が吹き飛ばされた。空蝉はとっさに空海に覆いかぶさり、飛車丸は朱棍で庵の破片を打ち砕いた。
「おお……」
 空蝉の腕の合間から、空海は見た。
 霞んだ視界、飛び散る破片の中、飛車丸の黒髪がゆっくりと放たれてゆく。その額に生える角が、後ろ姿からでも見えた。
 つらい運命をお持ちだ。
 何一つ知らぬまま、自分はそう言ったけれど。
 貴方の本当を知れて、良かった。
 満足げな笑みを浮かべたまま、空海は目を閉じていた。

 白鬼達の急襲に、斎と山吹は驚きを隠せなかった。
 元より、単体行動の多い鬼である。それが群れをなしているだけで、驚嘆に値した。おまけに知能をまるで持たぬ白鬼が、空海の庵ただ一点を目指しているのである。
「こしゃくな!」
 山吹が指を繰る。爪で鬼を切り裂く桜花の合間を竜が飛ぶ。大口を開けた木竜が三匹ほど一気に呑み、土から沸いた土竜がその身で白鬼の体を縛り上げた。
 それでも鬼の数はまるで減らなかった。山肌の木々の合間から白い体躯がいくらでも覗く。
「馬鹿な」
 いつの間にか山吹と背を合わせた斎が呻く。数が多すぎる。息をついた瞬間、町から火の手が上がった。
「町が……!」
 二人が町に気をとられたその隙に、庵に一撃をくれた鬼がいた。
 まるで別方向からの攻撃に、斎と山吹が硬直する。あの中には、飛車丸達がいるのだ。
「何者だ!」
 斎が叫ぶ。その視線の先の空に、やはり鬼がいた。

 吹き飛んだ庵の先、覗く空に漂っている鬼が居る。まるで初めからそこにいたかのように、寛ぎ座っている。人を模した姿に靡く白銀の髪、藍染の衣。そして、頭の両脇から生える不揃いな角。
 飛車丸は、その鬼を知っていた。
 酒天もまた、よく知っていた。
 その鬼は名を持たぬ。
 戯れのままに人を殺め、その血肉を糧とし、涙を好み呪詛を愛す。
 いつか誰かが呟いた。
「我ら人の久遠の仇……憎き鬼よ!」
 それがそのまま呼び名となった。
「久遠……てめぇ!」
 酒天が久遠を睨み据える。
「煩わしい人形遣いの臨終に華の一つもと思えば、これは奇縁。一つ角、懐かしいかな」
 す、と久遠の目が細まった。狐を思わせるような半月の瞳、小馬鹿にしたような表情は相変わらずだった。青白い肌に、嘲るような笑みを描く唇が紅く映える。
「人の身が随分気に入ったと見える。酔狂なことよ」
 酒天の体を見下げる、その目は明らかに蔑んでいた。
「うるせぇ! よくも俺様の前に顔を出し……ぐ!」
 久遠に向け叫んでいた酒天が、突然呻いた。
「ぐ……が」
 苦しげに喉を掻き毟る。
「飛車丸、てめ……」
 かくりと落ちた頭が再び持ち上がった時、その額から角が失せていた。
「飛車ま……」
 声を掛けようとした山吹が息を呑む。ぞっと肌を撫でるように、悪寒が駆け上がる。
 飛車丸は無言で久遠を見上げていた。
 その表情。
 常に穏やかな瞳は怒りに燃え、射抜かんばかりに鋭い視線を投げている。笑みを絶やさぬ口元は引き結ばれ、ともすれば歯軋りの音が聞こえそうなほどだ。
 これは誰だ――
 山吹は思った。
 酒天ではない。それはわかっている。けれど。
 飛車丸だと俄かには信じがたい。それほどに、男の顔は鬼気迫っていた。
 これでは、まるでお前が鬼だ。
 睨みあげる飛車丸の視線を、久遠は完全に受け流した。虫でも見るような興味のない瞳で飛車丸を一瞥し、ただ、その手に握られた朱棍を見た時にだけ、少し微笑んだ。
「ああ、それは」
 久遠が飛車丸が手にした朱棍を扇で指す。
「懐かしいの」
 久遠が言う。
「女人の血を吸うた棍か」
 くすりと嗤う、その声に飛車丸が激昂した。
「貴様!」
 言うが早いか地を蹴る。跳躍は高く、けれど久遠には及ばない。
「桜花!」
 山吹が指を繰る。飛び上がった桜花を蹴り、飛車丸は再び跳躍した。その手の中で朱棍が踊る。勢いのままに久遠に叩きつける、刹那。
 久遠が、扇を広げた。
 辺りに衝撃音が響く。久遠に触れるという直前に、朱棍が砕けていた。
「な……に」
 山吹が呟く。
 破片となった朱棍が飛び散る。落下するその最中でも、飛車丸は久遠から視線をそらそうとはしなかった。
「法師」
 蔑むような声で久遠が飛車丸を呼ぶ。瞬間、竜が二人の間に割って入った。久遠の扇を受けたその身が弾け飛ぶ。すぐさま別の竜が飛車丸を守るように輪を描き、地に降りた。
 その様を見た久遠の瞳が細められる。
「ほう」
 白い肌に真っ赤な口の奥を覗かせながら、笑んだ。
「昔は呪詛を吐くしか能の無かった貴様が」
 金色の瞳が飛車丸を見下ろす。涙と涎にまみれ、声が枯れるほどに泣き叫んでいた、あの無力な人間が。
「私に届くようになったか」
 ゆらゆらと、久遠の衣が空に舞った。
「面白い」
 良い退屈凌ぎになりそうだと、久遠はゆったりと嗤った。
「また会おうぞ、法師」
 久遠の髪が広がる。
「待て、貴様!」
 山吹が指を繰る。桜花が飛び上がる頃には、久遠の姿は消えていた。


 久遠が去ると同時に、庵を巻いていた白鬼も失せていた。
「なんだあいつは」
 言いながら斎が空を見上げる。空は深く澄んでいた。
「空海様!」
 弾かれるように山吹が駆け出した。
 大破した庵の、空海の部屋へと駆け込む。
「空海さ……」
 山吹は足を止めた。空蝉が、空海の手を合わせているところだった。
「静かな旅立ちでございました」
 空蝉が告げる。穏やかな表情で空海は眠りについていた。
 空海を庇った際に傷ついたのだろう。空蝉の腕が割れ、緑色の皮膚が覗き見えた。
 その傷を見た山吹が顔色を変える。
「やはり鬼か……!」
 札を構えようとするのを、斎が制する。そのやり取りにも顔色変えることなく、空蝉は告げた。
「その通り、人形に封じられた鬼です。空海様が、皆様に同行するように、と」
 よろしくお願いします、と頭を下げるのを見て、斎が頭を掻いた。
「いやに礼儀正しいな」
「山吹殿に調整を頼みたいと、空海殿が」
「なんだと!」
 飛車丸の言葉に山吹が噛み付く。そんな様を見て、空蝉は山吹に頭を下げた。
「よろしくお願い致します、山吹様」
「子鬼風情が私の名を呼ぶな!」
 山吹が背を向ける。斎が空蝉に囁いた。
「ごめんなー、姫さん、今、機嫌悪いから。まあ四六時中悪いんだけどな」
「聞こえている!」
「いいえ、構いません」
 悪し様に罵られるなど日常茶飯事だと空蝉は告げた。
 硝子玉のような瞳に山吹が写る。明るい色の髪が、陽に反射して煌いた。
「美しいお方だ」
 感心するように、空蝉は呟いた。


【其ノ四・終】

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