鬼神法師 酒天!

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 竜宮の家は海沿いにある。
 山をいくつか越えねば辿り着けぬと斎は言った。
「てなことで今宵も野宿。山の加護を願って」
 斎が殊勝に手を合わせる。焚き火の明かりに、その表情が揺らめいて見えた。あれからしばらく歩いて、山をひとつばかり越えた。麓に下りたところで村はなく、飛車丸が適当に場所を見繕った。
「つってもあんたといると、蚊も寄って来ない。これは嬉しい」
 斎が飛車丸を指差す。
「線香代わりにされたのは初めてだな」
 飛車丸が苦笑する。己の中で、酒天が怒っているのがよくわかった。

 山の夜は静まりかえっている。虫たちの鳴き声が、遠く聞こえた。その分、薪が爆ぜる音がやけに響く。
 空蝉は淡々と火の番をしていた。
 皆眠りについてしまった。薪を中心に輪を描くように横たわっている。そちらに視線をやることもなく、空蝉はただ炎を見つめていた。少年の無機質な瞳に、炎の影が揺らめく。
「眠れねぇのか」
 飛車丸が静かに目を開いた。否、話しているのは、酒天だ。その証に、額に角が生えていた。
「鬼は寝ません。ご存知でしょう」
 空蝉が炎を見つめながら答えた。言われた酒天が顔を歪める。
「そういや、そうだ」
 言いながら起こしかけていた身を投げ出すように寝そべった。
「寝ないとコイツの体にガタが来やがる。いつの間にか俺まで寝る習慣がついちまった」
「そうですか」
 ぱちり、と薪が爆ぜた。空蝉が事務的に新しい枝を投げ入れる。
 淡々と火の番をする少年を見て、酒天は眉を顰めた。
「逃げねぇのか」
「なぜです」
「今が好機だろう。皆間抜け顔晒して寝てるぜ?」
「ですから、なぜ逃げるのです」
 空蝉の答えに、酒天が頭を掻く。腐鬼には抜けたヤツが多い。知能が乏しく、会話すらできない者がほとんどだ。それに比べれば、空蝉は幾分マシだが、やはり阿呆だと酒天は思った。
「どうせその調子でぼんやりしてて捕まったんだろが。その躯、ぶっ壊してやろうか」
「必要ありません」
 私は捕まったのではないのですから、と空蝉は言った。
「なんだと?」
 酒天が顔を顰める。理解しがたいとそこに書いてあった。
「じゃあ、なんだってそんなとこに入ってんだ」
「小鳥」
 空蝉がぽつりと呟いた。
「小鳥に触れたい、と思いました」
 少年の顔を炎が照らした。黒い瞳がその光を映している。
「私は、腐鬼です。触れたものは全て腐らせ、朽ちさせる。やがて腸から自らも腐り落ちゆく定め。ならば、と私は何にも触れず、動かずに死に行こうと思いました」
 それでも地に座っているだけで土が腐ったと空蝉は言った。触れた傍から植物は枯れ、山の美しい景色が腐り行くのは辛かったと。
「空海様は、ただ座っている私に、何をしているのかと問いました。私は答えませんでした」
 鬼に話しかけるとは奇特な人間だと空蝉は思った。杉の木と同じくらいの巨体が何もせず座り込んでいるのは、奇異なものだったのだろう。空蝉が答えずにいると、空海はその場を去った。それきり二度と来ないだろうと、空蝉は思った。
 そして沈み行く月を、昇り行く陽を、去る雲をただ眺めていた。山の空気は澄んでいて、気持ちが良かった。芽吹く緑、抜けるような青空、紅葉、落ち葉。夕陽は山に映え、夜はしんしんと冷える。墨を撒いたような夜空に星は瞬き、月が時折その肌を覗かせた。
 なにもかも皆美しく、輝いていた。
 ある日、近くで鳥の声がした。喜びに顔を上げた途端、空蝉の呼気に当たった雲雀は落ちてきた。掌で受け止めると、雲雀はそのまま腐り始めた。空蝉は、手を震わせたまま、もう顔を上げようともしなかった。
「しばらく後、空海様は再びお見えになりました。今度は、何がしたいのかと問いました。私は」
 小鳥に触れたい、と掌を固く握り締めたまま答えた。いつかの雲雀はとうに腐り落ちていた。それでも、手を開く気にはなれなかった。固く引き締めた拳が、混じりあい腐り行くのを感じる。今も己の肌が絶え間なく腐り落ちていく。ちくちくと腹が痛い。腸が腐っているのだ。それでもこの巨体はまだ残っている。あとどのぐらいで土に還るのか、空蝉にはわからなかった。だが、きっと遠くは無い。
 そんな空蝉に、自分は神仏に仕える者だと空海は言った。鬼を封ずるための人形を作っているのだと、懐から札を出して見せ、だから息絶えることなくお主と話せると屈託無く笑った。老人にも関わらず、赤子のような表情をすると空蝉は思った。
「空海様は、私にこの躯をくださいました。けれど」
 空蝉が己の体を抱いた。神木のかちあう音が聞こえる、いびつな体。
「けど、なんだ」
 酒天の問いに、空蝉の虚ろな瞳が揺らいだ。
「そのために、私は空海様を看取らねばならなくなりました。本来ならば、私が先に土に還るはずだったでしょうに」
 良かったのか悪かったのかわからない、と空蝉は言った。
「胸が痛いのです」
 あの人を亡くしたことがこんなにも痛い。
 木の体を授かり、空海の庵へと赴いた。井戸で水を汲み、飲んでみた。墨の匂い、書物というもの。小鳥に触れ、兎も抱いた。町へも降りた。溢れるような人、出会いと別れ。日々は慌しく、それでも確かに培われた何か。
 ひとつひとつの思い出が走馬灯のように空蝉の心を巡り、その度に胸が痛んだ。
 あの山で何にも触れず、何も知らずに朽ちるのと、どちらが幸せだったろう。
 空蝉の懊悩を、酒天は耳を穿りながら聞いていた。
「くだらねぇ」
 俺は寝るぜ、と空蝉に背を向ける。鬼ならば当然の反応だと空蝉は意に介さなかった。しかし。
「くだらない……」
 薪が爆ぜる。
「そうでしょうか」
 少年の呟きを、山吹は目を閉じたまま聞いていた。



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