鬼神法師 酒天!

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 朝陽が昇ると同時に、一行は歩き始めた。
「なんだ、寝てないみたいな顔して」
 斎が飛車丸を指差す。その目の下に、はっきりと隈が現れていた。
「いや、私は寝たのだが」
 酒天が、と言いかけた言葉を飛車丸が飲み込む。己が意識を手放している間、酒天は野放しなのだと知られるのはまずいような気がした。
 初めの頃はそんなこともできなくて、限界まで起きていたりもしたのだが。
 いつの間にやら安穏と寝てしまうようになった。幸い、目が覚めれば惨状が広がっているということもなく、それは酒天への信頼へも繋がった。尤も、酒天にしてみればいい迷惑だった。それなりの自由はある。しかし、代償が大きいのだ。初期の頃、飛車丸の体で夜の間中、山を巡っていたことがあった。憂さ払いとばかりに妖を殺してまわった。朝が来ると、筋肉痛で飛車丸は動けなかった。そこに殺し損ねた妖が来たものだから、たまらなかった。
 同じ体にいる限り、飛車丸が死ねば、酒天も死ぬのだ。
 あの時、飛車丸は気力で妖を封じたものの、酒天は二度と出歩こうとはしなかった。
「……まあ、あまり、眠れなくて」
 曖昧な笑みで飛車丸が濁す。斎はそれ以上追及しようとしなかった。

 ふたつ目の山を登り、降りようかという頃だった。
 一行の先に、幼子が現れた。娘だ。紅い着物がやけに目立つ。おかっぱの髪を頭上で一縛りし、鈴の飾りをつけていた。
「うさぎー、どこいっただー?」
 声を限りに叫んでは、辺りを見回しながら歩いている。
「どうした?」
 飛車丸が訪ねる。娘は、それでようやく立ち止まった。
「おらのうさぎ、いなくなっただ」
 娘が大きな瞳を潤ませて言った。
「飼っていたのか」
 言った斎が辺りを見回す。鬱蒼と茂った木々が辺りを覆い、茂みもあちこちに見て取れる。兎を連れ戻すというのは困難に思えた。
「探しましょう」
 言ったのは、空蝉だ。娘がぱちくりと大きな瞳を瞬かせる。髪に結わえられた鈴が、ちりんと音を立てる。
「おらのうさぎ、見つけてくれるだか?」
 空蝉に駆け寄った娘が、その顔を見上げた。
 空蝉が表情を崩さずにいると、にんまりと笑い、小指を掲げる。
「あんがと! 約束!」
 差し出された小指を、空蝉はただ見ていた。
「こういう時は指を絡めるものだ」
 山吹が言う。
 それで空蝉はぎこちなく、指を差し出した。小さな少女の指に、己の木の指を絡める。
「やくそく、ね!」
 にししと笑って、少女は駆け下りて行った。桜の色をした帯がひらひらと、木立の合間に舞った。

 約束をしたのは貴様で、果たすのも貴様だと山吹は告げた。
「私は知らぬ」
「わかりました」
 空蝉は淡々と辺りを伺った。兎のいそうな茂みは多い。
「まあ手伝ってもいいけどさ」
 斎が言う。
「どんな兎かもわからないんじゃ……え?」
 傍に寄ってきた竜の囁きに、斎が眉を潜める。ちらりと傍らの茂みを見やると、指を口に当てた。
「ちょーっと、動くなよっと」
 言いながらそろりそろりと茂みに近づく。えい、と斎が茂みに突っ込むと、真っ白な兎が慌てて飛び出した。その首に、娘と揃いの鈴がついている。ちりんちりんと鈴が鳴った。
「いかん、逃した!」
 斎が立ち上がる。
「やれやれ」
 嘆息した飛車丸が、兎の前に立った。ゆっくりと腰を下ろす。
「おいで」
 鼻をひくつかせた兎が、首を傾げるように飛車丸を見た。穏やかに微笑む飛車丸の表情の下、鬼の気配を感じ取った兎が、途端に駆け出す。その首を、山吹が掴み上げた。
「全く、何をしているのだ」
 揃いも揃って要領が悪い、と兎を空蝉に渡す。
「さっすが山育ち!」
 斎の言葉が終らぬうちに、山吹は指を繰っていた。

 娘に兎を届けるため、空蝉は駆けた。別れてからさして時間は経っていない。まだその辺りにいるだろうと飛車丸は言った。一礼して、すぐに戻ると告げ、空蝉は駆けた。
 あの人は、私の言葉を疑おうともしない。
 静かに頷いた飛車丸の顔を思い出し、空蝉はくすぐったいような気持ちになった。
「あ」
 木立の合間に、娘の帯を見つけた空蝉は、駆け寄った。
 名すら聞いていなかった。ひらひらと舞う帯を見失わぬよう、駆け寄る。帯は木立に引っかかっているだけだった。
「兎を……」
 空蝉が茂みの向こうを覗く。彼はそこで足を止めた。
 そこに娘の足だけがあった。
 小さな両の足が、裏を向けて投げられていた。
 ぴちゃぴちゃと音がする。
 数匹の猿鬼が座り込んで食事をしていた。その手に、娘の腸を握っている。あるいは、腕を、腿を、顔を。
 しゃぶりつくされた骨が、空蝉の足元に投げられた。
 知っている。これは手の骨だ。
 約束ね、と指切りをした、あの指だ。
 空蝉の手の中で、兎が震える。
「行きなさい」
 空蝉は、兎を手放した。怯えた兎が逃げていく。
「なんだぁ、おまえ」
 食事をしていた猿鬼の一人が、空蝉に気づいた。
 少年はゆっくりと顔を上げた。変わらぬ表情の中で、その瞳は怒りに燃えていた。


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