鬼神法師 酒天!

  表紙



 自分の中で渦巻く感情をなんと呼ぶのか、わからない。
 空蝉は懐から札を出しながらそう思った。
 鬼とて食わねば死ぬのだ。人とて獣を喰う。何が違うのだろう。
 あの娘は餌になった。それだけの話ではないか。
「おに、おにのにんぎょう!」
 空蝉の体を見た猿鬼が手を叩いて囃し立てた。
「いかにも」
 空蝉が答える。と、同時に手中の札を放った。当たった猿鬼が悲鳴を上げる。札は熱を持ち、猿鬼の体を焼いた。
「おまえ、なにする!」
「ひどい、ひどい」
 驚いた猿鬼達が口々に罵りながら後ずさった。喰い残した娘の腸を、手を、踏んでいる。割れた肉が飛び、泥にまみれた骨が転がる。その光景に、空蝉は目を細めた。
「お前達を討つ」
 空蝉が次の札を構えた。
「おまえ、おに、おに」
「なかま、なかま」
 猿鬼達が言い募る。
「鬼ゆえに」
 答えた空蝉が地を蹴る。
「許せぬこともある」
 素早い動きで猿鬼に札を貼る。襲い掛かってくる拳を避けざまに、もうひとつ。絶叫を上げる猿鬼の背後から、新たな猿鬼が現れた。
 空蝉の視界を、娘の帯が過ぎる。
 気をとられた瞬間、空蝉の体を猿鬼が握った。大きな掌で、握りつぶそうと力を籠める。その手が神木で焼かれることも、猿鬼は意に介さなかった。
「ぐ……う」
 空蝉が呻く。
「おまえ、もろい、にんぎょ」
 猿鬼が嗤う。空蝉の体に皹が入った、その時。
「やれやれ」
 涼やかな声と共に、朱棍が振られた。空蝉を握っていた猿鬼の頬が横に張られる。猿鬼は体勢を崩すと同時に空蝉を手放していた。
「飛車丸様」
 空蝉の前に飛車丸が立つ。まるで自分を庇うようだと空蝉は思った。
「空蝉、怪我は」
「ありませぬ」
 微笑んだ飛車丸に猿鬼の拳が迫る。飛車丸はなんなく朱棍で受け流した。その向こうで、竜が猿鬼を喰っている。
「見せてみろ」
 山吹が空蝉の腕を取る。腹から肩、首にまで入った皹を見て、山吹は眉を顰めた。
「先刻直したばかりと思ったが」
「申し訳ありません」
「無茶はせぬことだ」
 山吹が針を取り出す。それから、ふと手を止めて言った。
「残念だったな」
 何が、とは言わなかった。
 空蝉が俯く。無言のうちに、山吹は空蝉の体を縫い合わせた。

 竜がたらふく猿鬼をたいらげたところで、斎は手を打った。
「終わりだ! ありがとな!」
 竜が嬉しそうに輪を描きながら消えていく。相変わらずいい加減な使役だと山吹が嘆息する。
 飛車丸が何かに気づいたように振り返った。
「空蝉」
「はい」
「ずっとお主を待っている」
 飛車丸が指差す。木に絡んだ帯の下、鈴をつけた兎が震えながらもそこにいた。空蝉と目が合うと、恐る恐る近づいてくる。
 うさぎ、うさぎ。
「お前――」
 空蝉は擦り寄ってくる兎を抱いた。温かかった。
「お前を撫でる手はもう無いのだ」
 空蝉は言った。あの娘は死んでしまった。
 ――空海様、あなたも。
 温かかった、あの日。庵での日々。懐かしいと、空蝉は思った。
 兎の首から鈴を外す。
 お前は自由だ。私と同じ、虚しい自由だ。
「お行き」
 空蝉が手放す。兎は三度跳ねてから、空蝉を振り返った。ひくひくと鼻を鳴らす。それにも、空蝉は答えなかった。
 やがて兎が茂みにその姿を隠す。それを見届けてから、空蝉は振り返った。
「お時間をとらせました」
 言い終わらぬうちにその頬を張ったのは、山吹だ。
「馬鹿者!」
 一喝する声が辺りに響いた。
「山吹様……?」
 空蝉が山吹を見上げる。頬がじんじんと痛む。けれど、木の体を叩いた山吹の方が痛むだろう。その手が赤く腫れ上がっているのが、その証だった。
「お主は泣きたいのだ。なぜ泣かぬ!」
 山吹が叫ぶ。その目にも涙が滲んでいた。
「泣く……」
 空蝉が呟いた。
「私は……」
 空海様。
「私には……わかりませぬ」
 虚ろに呟く空蝉の眼から流れる、それは確かに涙だった。


【其ノ伍・終】

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