鬼神法師 酒天!

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其ノ六 罪なる法師、竜宮に赴く【一】


 誰もその罪を知らぬ。
 否、皆、目にしている、既に。
 
 わたしの体を貫き、わたしの血を浴びたその身を。
(此れは呪詛)
(此れは守護)
 貴方を放さない


 朝陽が昇る感覚に、飛車丸は目覚めた。
 布団で横になるのは久方振りのことだ。
 山を下り街道に出て、訪れた街で休んだ。
「さって、もうすぐで竜宮だ。あとちょっとだな」
 隣で身支度を終えた斎が張り切るように背伸びする。宿の店主は斎の姿を見るなり一行を宿に迎え入れた。代金など要らぬと、払おうとする斎の背を無理矢理に押して部屋へ押し込め、その後姿を拝む始末だ。
「墓が」
 飛車丸が呟いた。振り向いた斎の目を真っ直ぐに見ながら告げる。
「竜宮の祖先の墓があるのなら参りたい。叶うだろうか」
 斎の目が瞬いた。
「そりゃ、もちろん」
 そんな場所に行ってどうすると言いたげだ。
「ありがたい」
 斎の疑問を察したにも関わらず、飛車丸は答えようとはしなかった。

 竜宮の始祖から連なる先祖代々の墓は、海辺にあった。竜を模した石柱に守られるように巨大な墓石が立っている。潮風に晒された石柱は歳月を感じさせるほどに朽ちていた。竜の髭が折れているものもある。それでも手入れがなされているのか、どうにかして風体を保っていた。
 じっと石柱を眺めていた飛車丸が、歩を進めた。
 墓石の前で膝を折り、手を合わせる。
 瞼を閉じれば、在りし日のことがまざまざと思い出された。
「飛車丸、貴様、貴様ああ!」
 怒号と悲鳴の飛び交う中、確かにその声を聞いた。
「あれが最後になったな」
 飛車丸が物言わぬ墓に語りかけた。穏やかな瞳が淋しげに細められる。
「あれから一度も顔を合わせられなかった」
 血眼で捜していたのだろう。風の噂に何度も聞いた。こちらも必死で逃げたのだ。
 また殺すやも知れぬと、己がただ恐ろしくて、逃げたのだ。
 それでも、縁とは不思議なものだ。二度と誰とも触れ合うまいと思った己が、今では旅の連れが居る。そしてようやくこの場所に立てた。
「久しいな、辰」
「それが口伝を遺した祖先の名だ」
 斎の声に、飛車丸が振り返る。
 墓場の入り口で、支柱にもたれかかって腕を組んだ斎がいた。
「このあたりまで来れば、竜宮の本家まですぐそこだ。聞こえないか、竜の鳴き声が」
 耳を澄ませば遠く、なにかの鳴き声がした。高く低く、歌っているように。
「紫龍、健在か」
 薄紫色の鱗を持つ竜が、竜宮の本殿、その屋根に纏わりつくようにして鎮座していた姿を思い出し、飛車丸が呟く。
「呑気な。あんたを喰う気満々の声じゃないか。耳が痛いよ」
 とりなすのは俺だと、悩ましげに斎が溜息をついた。
「辰が私を許すなと言ったのだろう」
 あれは律儀に数百年も前の約束を覚えているのだと、飛車丸は笑った。
 朱棍を見た目がふと細められる。
 あの時、これはまだ、ただの木棍だった。伽羅の、最愛の女の血を吸うまでは。
「あれはそういう竜だと、私はよく知っている」


 ◆◆◆


 今から時を遡ること数百年余。
 さびれた街道の片隅に、立ち尽くす男がいた。
 鍛えられた体躯は太く、けれど汚れていた。背も高い。街道を通る人間達が、遠巻きに男を眺めた。
 乱雑に切られた髪の合間から覗く瞳が睨み据える先には、老婆が居た。
「婆ぁ〜」
 噛み締めた歯の合間から零れだすように、男が呻いた。
「ひっ」
 男の殺気に、老婆が座り込む。その姿もまた男の怒りに拍車をかけた。
 先刻、男が乏しい食料を手に街道から去ろうと背を向けた時だった。老婆が石を投げてきた。小石がこつんと頭に当たる。
 己に石を投げた。
 振り返った己の殺気に押されて、尻餅をついたこの腰抜け婆が。
 男が老婆に大股に歩み寄る。勢いのまま、拳を振りかぶった瞬間。
「何をするのです!」
 老婆の前に菫色の法衣を纏った女が立ちはだかった。鮮やかな金色の髪。肌は土にも似た色をしており、毅然と男を睨み据える瞳は、青く深い。紅の唇がきゅっと結ばれ、男への抗議を示していた。
「女、邪魔だ!」
 老婆の前に立ち塞がる女もろとも、男は拳を振るおうとした。その手が何かに阻まれる。絡み取られるような違和感に、男が己の手を凝視した。
 何もない。
 にも関わらず、締め付けられる感覚と共に、腕は微動だにしなかった。
「なんだこれは!」
「噂通りの乱暴者だ。おまけに竜も見えんとは、信心の欠片もないと見た」
 男の後ろで声がした。男が視線をやると、木にもたれかかった男が薄笑いを浮かべながら印を結んでいる。
「辰」
 ほっとしたように女がその名を呼んだ。老婆がその背後で手を拝み合わせている。
「困りますな、伽羅様。勝手に飛び出されては護衛の意味も無い」
 辰と呼ばれた男がゆっくりと歩き出す。薄水色の法衣を着、その髪は炎を思わせる鮮やかな色をしていた。どこか軽薄な雰囲気を纏った笑みを浮かべたまま、男の脇をすり抜け、伽羅の元へと向かおうとする。
「動けんだろう」
 すれ違い様、ちらりと男を見て、辰が言った。
「お前の体を竜が縛っておる」
「なんだと」
 男が己の体を凝視した。巻いていると言われる竜の姿形も見えない。けれど、締め付けるような感覚がその言葉を信じさせた。
「なに、噂は聞いておるよ。街道一の暴れ者で嫌われ者だとか。しばし心静めるがいい」
 辰の言葉に男がぴくりと反応した。
 老婆の投げた小石が当たった場所が再び痛んだ気がした。
「そうだ、己は……」
 溢れんばかりの敵意を滲ませて、男は呻いた。全身に力を入れ、強張らせる。
 街道の裏に捨てられていた赤子だ。
 誰からも必要とされず、誰をも必要とせず、この年まで生きてきた。奪えるものはなんでも奪った。殴れるものはなんでも殴った。どうせ誰も己とは口をきかぬ。そして、誰からも必要とされず、誰をも必要とせず、このまま死ぬ。
「己は……」
 男の手がぴくりと動いた。剣呑な気配に、辰が振り返る。
「おい、無理はす……」
 言いかけた辰の頬を、男の拳が見舞った。辰が勢いよく傍の木立に激突する。
「辰!」
 伽羅が口元を押さえた。慌てて男に向き直り、絶句する。
 竜の爪を振り切った男の全身に、殺気が渦巻いていた。肩でする息は荒く、目だけが強く光っている。拳から滴る血さえ、顧みない。
 辰を睨み据えていた男は、やがて息を整えると、伽羅達に背を向けた。
「もし、どこへ!」
 伽羅の問いかけに男は答えなかった。
「貴方も傷の手当をしなくては」
 次いでかけられた言葉に、男の背が強張った。竜の爪を振りほどいた掌から、ぼとりと血が落ちる。
「……己には、要らぬ」
 わずかに振り返って、男は告げた。伽羅に、かすかに見えた表情は泣きそうになっていた。


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