軋むような全身の痛みを堪えながら、男は塒に辿り着いた。倒れるように身を投げ、襲い来る睡魔に身を任せる。
眠れば治る。治らなかったところで、誰も困らぬ。
自嘲にも近い笑みを浮かべ、男は目を閉じた。転がり落ちていくような睡眠は深く暗く、夢も見なかった。
どのぐらいの時が経ったろう。ふと何かの気配を感じ、男は目を覚ました。
獣だろうか。
鬼だろうか。
目を細める前に、傍の茂みが動く。やがて姿を現したのは、獣でも鬼でもなく、先刻の女だった。
男の目が驚きに見開かれる。
「お前は」
「ああ、良かった」
伽羅はほっとした顔をして、男の前に座った。ふわりと春のような香りが漂う。
「竜を振り解いたとあればただではすみません。手当てをしなくてはと探していたのです」
薬師様から薬をいただいてきましたと伽羅は笑った。その足が泥に汚れ、上等な着物が擦り切れている。
「お探ししました」
そう言って、伽羅は男の手を取った。ざっくりと手の甲が裂け、血と泥がこびりついていた。肩にも背にも傷が残っている。
「おい、己は……」
「ひどい」
傷を見た伽羅はその蒼い目に涙を浮かべた。男の黒目が瞬いた。
「痛かったでしょうに」
言いながら、男の手の泥を落とし、こびりついた血を拭く。
涙を目に溜めたままの伽羅を、なにか珍しいものでも見るかのように、男は見た。
この娘は泣いている。
なぜ?
渦巻く疑問が、男を動けなくしていた。伽羅の細い指が己に触れる。その儚いような感触もまた、夢ではないかと思わせた。
やがて手当てを終えた伽羅は、目尻の涙を拭くと、男の前で手をついた。
「先刻は大変失礼を致しました」
男の前で深く頭を垂れる。
「あの婆様から話を聞きました。知らぬこととはいえ、詫びのしようもありません」
先に石を投げたことを聞いたのか、と男はぼんやり思考した。
何を言っていいのかわからなかった。
伽羅が頭を上げる気配はまるでない。己の言葉を待っているのだと、男は気づいた。
けれど、男はかけるべき言葉を持ち合わせていなかった。なんと言えば良いのか皆目見当もつかない。
「……あ……」
男の唇から声が漏れた瞬間、
「いつまで伽羅様に頭を下げさせているんだッ!」
罵声と共に、男の頬に蹴りが見舞われた。
「辰!」
そこに姿を現した竜使いの姿を見て、伽羅が絶句する。
「この御方はなあ、本来ならば、貴様など口もきけぬ……」
「辰!」
一喝するように伽羅が叫んだ。辰が不満げに口を閉ざす。
「詫びをなさい」
男の頬に手を添えて、伽羅が俯く。
「重ね重ねの非礼、申し訳ございません」
「いや、これぐらい……」
香の匂いに押されてか、男がわずかに身を引いた。
「そーだ、気にするな」
「辰!」
伽羅にきっと睨まれて、辰は口笛を吹いた。
「あー、まあ、悪かったな」
鼻を穿りながら言う。
「悪いなんて思ってないけどな」
瞬間、そう呟く辰の隣に、薄紫の竜の尾が見えた。男の目が瞬く。
「で? 伽羅様、どうするんで」
辰に言われて、伽羅は目的を思い出したようだった。傷の手当、それから、もうひとつ。
「共に行きませぬか」
伽羅の言葉に、男は呆気にとられていた。
何を言っているのか、この女は。
「こちらで行き場のない方がいると、伺って参りました。私共の住まいもあばら家ですが、もしよろしければ」
伽羅が微笑む。
男の唇が戦慄いた。
では、この女は。
あの老婆でも、他の誰でもなく、己を救いに来たのだ―――
「ああ、そうだ」
伽羅は思い出したように懐から和紙を出した。
「まだ名がないと聞きました。私の一存でよろしければ」
男の前で和紙を広げる。墨痕鮮やかに描かれた、男が初めて見る文字だった。
「飛車丸、それが貴方の名です」
「己の……」
伽羅の言葉に、飛車丸は手を震わせた。ぶるぶると震えながら、伽羅が持つ紙をじっと凝視する。
「己の、名……」
「そうです」
「己は」
呻くように飛車丸は言った。
ずっと求めていた何か。それは「名」だったろうか。人としての扱いだったろうか。
初めて己の目を見て話した女。獣じみた自分に名を与え、なお共にあろうとする。
「己は、まだ、人になれるだろうか……」
掌を堅く堅く握り締め、祈るように飛車丸は呟いた。憐れみを込めるような瞳で、伽羅がその背に手をかける。
「貴方が望むならば、必ず」
私はその手助けを致しましょう―――
伽羅の言葉に、飛車丸は静かに頷いていた。
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