鬼神法師 酒天!

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其ノ七 罪なる法師、竜宮に赴く【弐】


 飛車丸が塒を出て四日。町を過ぎ山を越え、不揃いな石段を登った先の山頂に辿り着く。そこに伽羅達の住処があった。
「こちらです」
 思わず立ち止まる飛車丸に、伽羅が手を差し出す。傷を気遣ってのことだろうが、辰は面白くなさそうな顔をした。
「私共は、皆、ここで慎ましく暮らしております」
 伽羅が微笑んだ。その向こうに、本殿が見える。それから、いくつかの民家。外界から取り残されたような集落がそこに存在していた。
「あー、伽羅さまー」
 伽羅の姿を見つけた子供たちが駆け寄る。
「お歌うたって!」
「お話して!」
「どこにいってたの?」
 ぐるぐると伽羅の周りを取り囲んだ子供たちは、飛車丸の存在に気づくと、伽羅の背に隠れた。
「あれ、だあれ?」
 衣の隙間から覗くように、尋ねる。
「新しい家族になる方ですよ」
 伽羅が微笑むと、その子は伽羅と飛車丸を交互に見た。
「ふーん」
 そう言って、飛車丸の手を掴んだ。
「じゃあ、いいとこ連れてってあげる! 今ね、おばばが芋を炊いたの! 美味しいの!」
「いや、己は……」
「行こ!」
 子供に手を引かれ、飛車丸は困惑したように伽羅を見た。
「いってらっしゃいませ」
 伽羅が微笑んで手を振る。飛車丸は引きずられるように子に導かれた。

 寝床として用意されたのは、飛車丸には過ぎるような部屋だった。長屋のひとつで、傍から見れば十分に襤褸なのだが、屋根があるだけで嬉しい。布団の白いこと。嘘のようだ。
「どーした。穴倉生活が長かったから驚いてんのか」
「そうだ」
 案内した辰の揶揄にも、飛車丸は素直に頷いた。
「言っとくが、俺は反対したんだぜ。お前みたいな乱暴者、絶対皆の迷惑になるってな」
 そう言った辰が耳を穿る。静かにうなだれる飛車丸を見て、いらついたように溜息をついた。
 塒から連れ出してこの方、この男はいつもこうだ。
 まるで幼い迷子のように頼りない。自分を殴ったあの気迫はどこへ行ったのかと、辰はもどかしかった。
「あのなー、お前な」
「人に触れた」
 ぽつりと飛車丸が呟いた。
「殴らずに、殴られずに、初めて触れた」
 子に手を握られた。連れていかれた先で、老婆が芋を焼いていた。老婆は、飛車丸を見ても、逃げることなく臆することなく、ごく当然のように、芋を差し出した。
「人と話した」
 罵声でなく、怒声でなく。
「笑顔で」
 飛車丸の声が震えているのに、辰は気づいた。
 ここにいる者は皆、女も男も、飛車丸に屈託なく笑いかけた。あの時、一体己はどんな顔をしていたのだろう。ただひたすらに戸惑っていた。
「夢なら……醒めてくれるな」
 飛車丸が両の拳を握り締めた。祈るようにそこに顔を埋める。
「生憎夢じゃない」
 肩を震わせる飛車丸の横で、辰が告げた。あの方は大きな迷子なのです、と伽羅が言っていたその意味を知った気がする。
「……ここの暮らしもいいことばかりじゃないさ。けど、まあ」
 辰が目を伏せた。
「今の気持ちだけは忘れんなよ」
 そう言って飛車丸の肩を叩くと、辰は部屋を後にした。

 夜半を過ぎた頃廊下だろうか。飛車丸はふと気配に目覚めた。
 しずしずと外を歩く気配がする。飛車丸がそっと戸を開けると、そこに伽羅がいた。夜の風を纏い、白い息を吐きながら、提灯を手にゆっくりと歩いている。
「あら」
 飛車丸に気づいた伽羅が振り返った。
「起こしてしまいましたか」
「何をしている」
「見回りを」
 くすりと伽羅は微笑んだ。
「辰がやると言うのですが、時々寝ているのです」
 空を巡る竜を見上げながら、伽羅は肩を竦めて言った。あの屋根の上で鼻提灯を垂らしながら寝ている辰の姿が見える気がした。
「気持ちは有難いのですが、辰にも休んで欲しくて」
「……己も行こう」
「いえ、そんな」
 伽羅が首を振るのにも構わずに、飛車丸は外に出た。山の夜の冷気がその身を包んだ。傷が火照る身体には丁度良い。
「構わぬ。どうせ、目も覚めた」
 飛車丸が言うと、伽羅は困惑したようだった。
「起こしてしまいましたね。申し訳ありませぬ」
「いや」
 言った飛車丸が唇を噛む。そういう意味ではない。
「己は言葉を知らぬ。すまぬ」
 詫びる飛車丸に、伽羅の目が瞬いた。真っ青な瞳が自分を真っ直ぐに見つめている。
 居心地の悪さに、飛車丸は話題を逸らした。
「見回り、とは。賊でも出るのか」
 薄暗い森に囲まれた集落に視線を一巡りさせる。お世辞にも裕福とは言いがたいと顔に書いてあった。
「いいえ、賊ではなく」
 伽羅が微笑んだ。
「鬼です」
 言葉が終らぬうちに、竜が吼える。
「来ました!」
 伽羅が駆け出す。
 その鳴き声が聞こえぬ飛車丸にも、気配の異様さは伝わった。




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