「まあ、筋は悪くないな」
辰は傍の岩に腰掛けて、飛車丸をそう評した。組み手でさんざんにやられた飛車丸が、寝転んでどうにも駄目だと嘆息した矢先のことだった。
棍を渡してから毎日、時間の許す限り辰は飛車丸の相手をした。
棍の扱いを教え、型を教える。ついでに礼儀も叩き込んでやるとは辰の弁だ。
「そうだろうか」
飛車丸が寝転んだままに辰を見上げる。
「そうでしょうか、だ」
すぐさま訂正した辰は、飛車丸の顔を見た。自信なさげな顔に苛立ちを覚えつつも、後押ししてやることにする。
「まさかすぐ使い物になると思ったわけでもあるまい。地道にやることだな」
棍で肩を叩きながら辰が言う。飛車丸は目を瞬かせた。こうして時間をかけて何かに取り組むなど、初めてのことだ。もどかしかったし、苛立ちもした。拳を振るうだけのあの街道と、まるで勝手が違う。
あそこから出て、己は何かが変わっただろうか。
飛車丸が手を伸ばす。広げた指の合間で、雲が静かに流れた。
「さ、もうちょっとやるぞ」
辰が岩から飛び降りるのを契機に立ち上がる。と、二人に歩み寄る姿があった。
「伽羅様」
その姿を認めた辰が声を上擦らせた。
「精が出ますね、二人とも」
穏やかに微笑んだ伽羅が、手にした小包を掲げる。
「婆様が草餅を作ってくださいました。いただきませんか」
おお、と辰が目を輝かせる。飛車丸が口を開いた。
「いや、今、辰が休憩は終わりだと……」
言葉半ばで、辰が飛車丸の口を押さえた。首を傾げる伽羅に悟られぬよう、小声で凄む。
「馬鹿かお前は。ありがたく頂戴しろ」
「しかし……」
「いただきます! 伽羅様」
飛車丸のことなど構いもせず、くるりと辰が向き直る。伽羅が不安げに口元に手をやった。
「もしかして、邪魔をしてしまいましたか」
「まさかまさか、とんでもない! おい馬鹿、座れ!」
辰に地面を指差され、飛車丸はしぶしぶと腰を下ろした。
「棍術を習っているのですね」
飛車丸が手にした棍を見て、伽羅が微笑む。
「少し、お借りしてもよろしいですか」
伽羅の意図が掴めぬままに、飛車丸は棍を差し出した。手にした棍をまじまじと見た伽羅が、かすかに眉を寄せた。刻まれた傷が、修練の激しさを物語る。生傷が絶えない飛車丸の姿もまた、伽羅には痛々しく映った。
「あまり無理はしないでくださいね」
伽羅が言う。無理な相談だと、飛車丸は思った。
やがて雪解けを迎え、梅がその蕾を開き始めた頃、飛車丸は伽羅に呼ばれ本殿へと足を踏み入れた。女房が案内する先に、伽羅が座っていた。普段とは違う凛とした雰囲気に、飛車丸の背が伸びる。ゆっくりと目を開いた伽羅は、飛車丸の姿を認めると、笑みも浮かべずに告げた。
「辰から聞きました。今宵から警固にあたると」
「ああ」
飛車丸は頷いた。
「出会うは鬼です。良いのですか」
これにもまた、飛車丸は頷いた。伽羅がじっと飛車丸の目を見つめる。揺らぎのない瞳。情熱が宿ることこそないが、そこに迷いの余韻も見えない。
しばらく飛車丸の瞳を見つめた後、伽羅は静かに息を吐いた。
「これを」
伽羅が合図すると、女房の一人が長布を飛車丸に差し出した。何かが包まれているらしい。
「これは……?」
とまどう飛車丸に伽羅が微笑みかける。促されるようにして布を解くと、中から真新しい六角の朱棍が出てきた。
輝くような緋色に飛車丸が顔を上げる。伽羅と目が合うと、慌てて頭を下げた。
「鬼に向かうは苦難の道。私に出来ることは何もありませんが、少しだけ、まじないをかけておきました」
貴方の行く先に光があるよう。
伽羅の言葉を、飛車丸は黙って聞いていた。
「ありがとう……ございます」
口から零れ出るのは、それまで使ったことのない言葉だった。
伽羅達が根城にしている山は、鬼の集落が近い。だからこそ何人も近寄らず、干渉せず、伽羅は行き場のない者たちに場を与えることができた。
「辰」
幾度目かの鬼との攻防を経た後、伽羅が呟いたことがあった。
「私は、間違っているのでしょうか」
生き場所を与えたい。それがたとえ鬼の住処の傍でも。
けれど代償として、ここに来た住人は常に鬼と対峙することになる。それはどれだけの苦難か――伽羅には計りかねた。
「間違っててもいいです」
辰はあっさりと言った。
「俺は伽羅様についていくって決めてます」
竜を操る竜宮の長子である辰と知り合ったのは、本当に偶然だった。娘が鬼に襲われている。助けようとした辰の眼前で、娘――伽羅は鬼を駆逐して見せた。以降、辰は伽羅の傍を離れない。跡取りが行方不明とあって、竜宮の民は血眼で捜していると聞いた。
「辰」
伽羅がほっとしたように微笑む。
「私に何かあった時は、皆を頼みますね」
「伽羅様!」
滅多なことを、と辰が言う。その口先に指を立てて、伽羅は告げた。
「貴方がいれば、安心です」
それは予言にも似た、不吉な言の葉だった。
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