夜空に煌々と輝く月も、山の闇までは払えない。聳える木立の合間から、一匹、また一匹と鬼が姿を現した。
乳白色の巨体が、ゆっくりと歩む。あわせて、小枝が割れた。白鬼だ。
その姿に真っ先に気づいたのは辰が放った竜だった。いつもの如く本殿の屋根で寝入る辰に吼えて知らせる。違ったのは、辰の傍らにいる飛車丸の存在だ。どうせ起きまいと爪を掲げかけた竜が、その姿に気づく。
「辰」
朱棍を手にした飛車丸が辰に声をかけた。
「なんだ、どうした」
辰が目をこすりながら告げた。
「……来た」
呟いた飛車丸が屋根を飛び降りる。警鐘の銅鑼を鳴らすよう小僧に告げ、鬼の現れた一角へと駆ける。その姿を見ながら、寝惚け眼の辰は頭を掻いた。
「……あれ? あいつ、お前の声が聞こえたのか?」
言いながら竜を振り返る。竜は頭を振った。姿見えぬ者に声など届くはずもない。飛車丸は未だ竜の姿を明確に把握してはいなかった。
銅鑼の音に集落の者達が目を覚ます。慌てて本殿へと逃げる中、
「うわああん!」
木の根に足を取られた子供が転んだ。その背後に白鬼が迫る。
「ぼうや!」
駆け出そうとする母親を、静かに制する手があった。
「己が」
ゆったりと歩いた飛車丸が、鬼と子の間に立つ。
「飛車丸!」
気づいた辰が叫ぶ。飛車丸が朱棍を構えた。
以前、鬼と対峙した時は無我夢中だった。心底怯え、恐怖さえ抱いた。それが今、驚くほどに心が凪いでいる。
伽羅がいる。辰がいる。皆がいる。
そのことが、飛車丸の力になった。
静かに朱棍を握り締める。
守り手の資格。それが自分にあるだろうか。
「去れ、鬼よ」
飛車丸は告げた。
「ここは我ら人の領域。踏み入ることはまかりならん」
朱棍を突きつけるようにして警告する。白鬼は手を伸ばした。咄嗟に飛車丸が朱棍を振り下ろす。しなった朱棍は鬼の腕を捕らえた。
『まじないをかけておきました』
伽羅の言葉を裏付けるように、朱棍が煌いた。加わった力が、鬼を打ち倒させる。
飛車丸は肩で息をしながら告げた。
「……去れ」
鬼が呻く。全力で押さえ続ける腕が痺れるようだった。
「大人しく去れば、命までは取らぬ」
「あいつは馬鹿か」
鬼に語りかける飛車丸を見て、辰は頭を押さえた。
命は無闇に摘むなと言った。「できるなら生かせ」と教えた。確かにそうだ。だが。
――それは、相手が人の話だ。
「阿呆、阿呆だな。うん」
頷いて、指の合間から飛車丸の姿を見る。わずかに覗いた口元は、しかし微笑んでいた。
「わかるか、鬼よ」
飛車丸は尚も言葉を重ねていた。
どうしてこんな言葉が自分から出るのか、不思議だった。けれどそれが当然のような気がした。
人ならば。
街道で暮らしていた頃は、言葉の代わりに拳を振るった。疑問に思ったことはなかった。それが全てで、そうでなければ生きてはいけなかった。
鬼が呻く。
次の瞬間、鬼の爪が飛車丸の朱棍を弾いた。鬼の動きにあわせて、飛車丸が腕をそらす。勢いを利用して、飛車丸は朱棍を構え直した。
「わからぬか」
飛車丸が嘆息した。応えるように己に拳を振るう鬼をじっと見て、それから朱棍を振るう。朱棍に加わった伽羅の力が鬼を裂く。最後の咆哮を前に、飛車丸は思った。
言葉も通じず、ひたすら力に物を言わせる、鬼という存在。
これは己だ。過去の自分だ。
己は、己を屠っているのだ――
「飛車丸様!」
女の悲鳴のような声で、飛車丸は振り返った。子供の母親が駆け寄ってくる。女はぼろぼろと涙を零しながら飛車丸の手を取った。
「ありがとう、ありがとうございました……!」
朱棍を片手に、飛車丸は呆然と立ち尽くした。
女が礼を言い続ける。傍で腰を抜かしていた子供も、立ち上がって鼻水を啜りながら礼を述べた。
「ひーちゃん、ありがとお」
「いや……己は」
何を言えばいいのだろう。まるでわからない。
「やったじゃねーか!」
辰が飛車丸の肩を叩く。力強さに押され、飛車丸はよろめいた。辰が声をかけると、親子は何度も振り返り頭を下げながら村へ戻って行った。
「やった」
その姿を見た飛車丸が、呆然と呟く。
「己が……人を」
助けた。
礼を言われた、手を取って。
「は……は」
ぎこちなく、飛車丸の口から笑みが漏れた。
「こういう時は大口開けて笑えよ! こうだ!」
辰が飛車丸の肩を抱くと、大声で笑い出した。その顔が心底嬉しそうなのを見た飛車丸の瞳が瞬く。
「はは、は」
自然、口元が綻んでいた。今までにない衝動が腹の底から込み上げる。
「ははは、あはは」
飛車丸が笑い出す。初めての経験だった。
それを見た辰が満足げにまた笑う。
肩を抱き合う二人は、まるで親友のように見えた。
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