鬼神法師 酒天!

  表紙



 早朝。うっすらと霧がかった山を遠目に見ながら、白い紐を咥えた飛車丸が後ろに手を伸ばす。きゅっと一纏めに縛り、朱棍を手に取る。身に纏った山伏衣装にも大分慣れた。ここに来てどれぐらいの月日が流れただろう。気づけば肩までだった髪は腰まで伸び、馴染まなかった朱棍も今では己の手足の延長のようだった。
「都人から懇願がありました」
 伽羅の言葉を思い出しながら、飛車丸は山を登った。
「害を成す鬼がいると。金品を盗み、奪ってゆくそうです。なにより」
 伽羅は己も鬼の爪に裂かれながらここに辿り着いた男のことを思い出した。血まみれになりながら、同じく血まみれの女を抱え、あの鬼は彼女の命も奪ったのだと叫んだ。逢瀬を重ね、心を掴み、その上で踏みにじるように殺したと。男は鬼への呪詛を吐きながら死んだ。
「人を惑わせ、その心ごと殺めます」
 奥の間に静かに座りながら、伽羅は告げた。対面に座った飛車丸の背はぴんと伸び、かつての粗暴さも伺えない、凛とした姿勢だった。変化に安堵すると共に、伽羅の胸に例えようのない不安が湧き上がる。
 行かせて、よいのだろうか。
「わかりました」
 伽羅の葛藤に気づくことなく、飛車丸は畳に手をついた。ゆっくりと頭を伏せ、目を閉じる。
「不肖この飛車丸、行って参ります」
 あの無礼な口調を叩きなおしてやったのは俺だと辰は豪語したが、飛車丸の本来の気性が現れたのだと伽羅は思っていた。この集落に来て、飛車丸は魚が水を得るが如くに知識を吸収した。字を覚え、書物という書物を読み漁り、物事を思慮深く考えるようになった。今となれば辰のほうが粗野な物言いをするぐらいだ。
「気をつけてな」
 その辰が、山門を下る飛車丸に声をかけた。今では、辰の傍にいる竜の姿もおぼろげながら見える。飛車丸が微笑んだ。
「ああ」
 鬼を退治するために山を下るのは、この頃の飛車丸にとって珍しいことではなかった。初めは伽羅や辰と共に赴いた。辰などは、途中の宿で飛車丸を放り出したことすらある。
「面倒だ。お前行って来い」
 危なくなったら行ってやるからと、護符代わりに小さな竜を飛車丸の腕へ纏わせた。手を振る辰の後ろでは、すでに芸者が控えている。
 報告の為、伽羅にありのままを伝えた際、辰は憤慨する伽羅に「こいつの自立の為です、伽羅様。俺とて心を鬼にしたのです」と殊勝に答えたが、その頬には女の紅がべっとりとついていた。
 思い出した飛車丸が苦笑する。
 いつからだろう、鬼と対峙することに恐怖を覚えなくなったのは。
 一人で鬼と向き合う、その時にさえ心乱れることはない。
 こうして鬼に向かい行く最中すら、気分が落ち着いていた。
 案内人の示した先を、一人歩き続ける。竹林の竹が道を譲るように身をそらす。舞い散る笹の中で、飛車丸は目当ての姿を見つけた。
「酒天、という名だそうだな」
 名を呼ばれた鬼が黄金色の目を細める。人の形によくよく似た姿、都の衣装を艶やかに纏い、長い銀髪が風に流れた。額から突き出る角が、鬼の証だ。
「私の名は、飛車丸。お主を封じに参った」
 酒天が鼻で笑う。それが、全ての始まりだった。


 山に登った法師が帰ってこないと伽羅に一報が届いたのは、飛車丸を送り出して七日は経とうという頃だった。
 使者からの言葉を聞いた瞬間に、伽羅が立ち上がる。頬を紅潮させたまま、伽羅は早足で歩き出した。
「伽羅様、俺が!」
 辰が声をかける。伽羅が立ち止まることはなかった。
「いいえ、私が行きます」
 絶対に、と目に涙を浮かべた伽羅を見て、辰はもう何も言えなかった。

 あれから何日過ぎたのか、あるいはさして時が経っていないのか、飛車丸にはまるでわからなかった。
 鬼を封じた。己の身に。
 そこまでは覚えている。
「ぐ……う!」
 体の中から荒れ狂うような衝動を感じる。ともすれば皮膚を食い破られそうな痛みに、飛車丸は身をよじった。頭の中で鬼の声が響く。
『出せ、ここから出せ!』
 目一杯に歯軋りして、拳を握る。涙が滲むほどに目をきつく閉じても、己という存在が稀薄に感じられた。身体を乗っ取られそうだ。
「あ、あ……」
 縮こまっていた身体が弓なりに撓る。内側から押し寄せる力を止めようも無い。
 閉じていた拳が痙攣するかのように開く。力の拮抗を示すかのように、指が閉じかけては開く。
「飛車丸!」
 苦悶の中、飛車丸は声を聞いた。己の名を呼んでいる。かすかに瞼を開けると、舞い散る笹の中、駆けてくる伽羅の姿が見える。
 幻だ。
 己の欲がそう見せたのだ。そうに違いない。
 これまでかと飛車丸は思った。
「ああ」
 飛車丸の傍に駆け寄った伽羅は、その手を取った。夢ならぬ温もりが飛車丸の手に伝わる。涙が伽羅の目から零れ落ちる。
「良く頑張りましたね」
 伽羅が飛車丸の額に手を乗せる。おぼろげな意識の中、柔らかな光に触れた飛車丸は、己の中の鬼が鎮まるのを感じた。


 伽羅の手が飛車丸の額を撫でる。
 心地良い波が身体を満たす。
 飛車丸の身の内にいる酒天にとって、柔らかな束縛は屈辱以外の何者でもなかった。
 温かな光。それに何故逆らえない。
「この女……!」
 もがいた酒天が歯軋りする。その唇が、やがて残酷な笑みを描いた。

 知っている。
 これはやがて己が屠る女。
 この男の手で、必ずその命を摘んでやる――――!


【其ノ八・終】

  表紙


Copyright(c) 2010 mao hirose all rights reserved.