鬼神法師 酒天!

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其ノ九「罪なる法師、竜宮に赴く【四】」


 水滴が己の額を打つ。その感覚で、飛車丸は目覚めた。
「気がつきましたか」
 伽羅の声に身を起こす。と、全身を激痛が蝕んだ。
「う……」
 喉が酷く渇いている。それよりも。
「こ、こは……」
 痛みと疲労でぎこちない筋肉を動かして、飛車丸は周囲を見渡した。
 狭い岩牢である。湿った石の床に、飛車丸の身体は横たえられていた。石柱で作られた牢の向こうに伽羅がいる。壁にも床にも、無数の護符が貼られていた。
「竜宮の牢です。辰に頼み、私が連れてきました」
「たつの、みや」
 飛車丸は呟いた。辰に聞いたことがある。竜が生まれいずる場所、そこに故郷があると。いずれ竜が見えるようになったら連れていってやると言っていた。
 しかし、何故。
 疑問が掠めた瞬間、飛車丸の身体を痛みが走った。
「ぐ……うっ」
(ここから出せ!)
 身体の内から鬼の声がする。鳴り響くような声は、頭痛を伴って飛車丸を襲った。
「飛車丸」
 檻の前で、伽羅は告げた。声に促された飛車丸がわずかに目を開ける。
「貴方は身の内に鬼を入れました。従えなくては、貴方はいずれ鬼に喰われ、その身を滅ぼすでしょう」
 苦悶の中で飛車丸が伽羅を見上げた。視界が霞む。
 伽羅の青い瞳が揺れ、涙が滲んでいるのが見えた。小さな朱色の唇が悔しげに噛まれる。
「私が出来るのは、一時鬼を鎮めることだけ。貴方自身が、やらねばなりません」
 どうして、と伽羅の瞳から涙が零れた。
「身に、鬼など」
 肩で息をしながら、飛車丸は答えた。
「他に……」
 方法がなく。
 違う。
 伽羅が言っているのは、そのことではない。
 悲しみを湛えるようなその瞳を見て、飛車丸は気づいた。
 なぜ退かなかったのかと、そう問うている――
 確かに、飛車丸の手に余る鬼だった。退いたところで、誰も責めはしなかったろう。
 思案した途端に、内から食い破らんとする鬼の力が襲い掛かった。身を弓なりにそらしながら、飛車丸が苦悶する。
 だが、退かなかった。退けなかった。初めからそんなこと考えもしなかった。理由は。
 理由は――
「ぐう、おお……」
 飛車丸は呻いた。湿った洞穴の岩穴に爪を立てる。爪が割れ、血が溢れても、飛車丸が手を止めることはなかった。
「おおお、おお……」
 打ち震える飛車丸の姿を、伽羅はじっと見守っていた。洞穴に作られた座敷牢の檻の向こう、飛車丸がもがいている。その姿を、ただ見ていた。
「お、んなぁあ……」
 呻くように飛車丸が言った。否、飛車丸の言葉ではない。中の鬼が喋っているのだと伽羅は気づいた。
 飛車丸の体中の血管が膨れあがった。絶叫と共に体が仰け反る。
 喉を反らし、びくびくと飛車丸が痙攣した、その矢先。
 ごぷりと鈍い音がした。
 皮膚を突き破った音だ。
 伽羅が眉を寄せる。その視線の先、飛車丸の額に現れた異形の証。
 ――角。
 伽羅の顔が厳しくなった。
 天を目指し生える角に、飛車丸の額が割れた。辺りに血が霧散し、返り血でその顔もまた赤く染まっている。がくりと首を落すと、振り乱した髪がゆらりと揺れた。よろめく男は飛車丸の姿をしているが、黒髪の合間から覗く瞳には、明らかな殺意が宿っていた。
「酒天、ですね」
 伽羅が言った。口を歪める、それが答えだった。その端にも、牙が覗いている。額からの血を拭おうともせずに、酒天は言った。
「なぜ人につく」
 伽羅は答えない。ただじっと酒天の様子を見ていた。
「お前からは鬼の匂いがする」
 俺様を鎮めた力、あれも鬼のものだと酒天は言った。その声に身の内で抵抗を繰り返していた飛車丸の手が止まる。
「母は人でした。父は鬼でした。どちらにつくかは、私が決めること」
 伽羅が静かに告げた。途端に酒天が笑い出す。
「それで角を折ったのか! その額、飾りで誤魔化してはいるが、あったのだろう、角が!」
 げらげらと己を指差して笑う酒天を、伽羅は咎めなかった。淡々と、告げる。
「私を育ててくれた人への餞別でした」
 人として生きることを決意をした時、己で角を叩き折った。鬼にとって、それは非常な苦痛をもたらすことだった。痛みに狂う者さえいる。けれど伽羅はやってのけた。鬼子と呼ばれ忌み嫌われていた己を育ててくれた育ての父、彼が鬼に殺される姿を見た瞬間に。
 伽羅はふと過去に思いを馳せた。淋し気な視線が彷徨う。
 お前を迎えに来たと伸ばされた手を払いのけた。初めて「力」を使い、退けたのは己の父たる鬼だった。自分を生んだ母は、とうに狂い死にしていた。ただ一人、優しくしてくれた育ての父も、今死んでしまった。もうこちらに来るしかあるまいと、あの鬼は笑ったのだ。
「お主を孕んだ女の狂気、心地良かったぞ」
 愚かにもそこに愛があると思っていたらしい母。月満つる頃、鬼は真実を母に告げた。
「お前如きを愛すと思うたか」
 腹の中にいる鬼の赤子。それもまた、母の狂気に拍車をかけた。生れ落ちた伽羅を見て、即座にその命を絶とうと手を伸ばす。それを止めたのは、母の兄だった。
「殺せ、それは鬼子だ!」
 産婆も喚いた。
「兄様、お返し下さい。それは私の、私の罪なのです。私が始末を」
「この子に咎はあるまい」
 小さく腕の中で泣くお前には、もう角が生えていたと、後に育ての父は語った。村を追われ、山に小さな庵を作った父。つらいはずなのに、その素振りも見せなかった。
 その父を殺した鬼。
 許せなかった、絶対に。
 遠い、遠い昔の、こと。
 思い出せば、胸がちくりと痛んだ。そこに癒えることのない傷がある。
「ここから出せ」
 牢の合間から伽羅を覗き込むように酒天が囁いた。牢に貼られた護符がじわりと焼ける。我に返った伽羅が、さっと身を引いた。
 伽羅の青い瞳と、酒天の金色の瞳が交差する。


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