鬼神法師 酒天!

  表紙



「出せばお前の願いを叶えてやる」
 伽羅を舐めるように見つめながら、酒天が言った。
「願い?」
「そうだ。金、人、食い物、なんでも叶えてやる」
 酒天の言葉に伽羅は微笑んだ。
「それは望みませぬ」
「では何だ」
「私は……」
 そこで伽羅はとまどった。自分の願いはなんだろう。
 昔は、寝床が欲しかった。案ずることのない、自分の居場所が。
 けれど、今は。
 辰と出会い、皆を迎え、飛車丸と共にこの場所にいる。
 思い返した伽羅の唇は自然と笑んでいた。酒天の眉が不快そうに歪む。
「何も」
 欲しいものは全て手に入れてしまった気がする。
「けれど……そうですね。強いて言うのなら」
 伽羅は酒天に手を伸ばした。その頬にそっと触れる。
「貴方の幸せを――飛車丸」
「ぐうっ」
 焼けるような感覚に、酒天が飛びのいた。頬が焦げるように熱い。伽羅が飛車丸に力を貸したのだと理解した瞬間、酒天は激昂した。
「おのれええ!」
 爪を構え伽羅に突進してゆく。護符を破り捨て、勢いのまま伽羅に殴りかかる。伽羅は、微動だにしなかった。顔色一つ変えることなく、その場に立っている。
 その爪先が伽羅の髪に触れようとした瞬間、酒天の体が硬直した。
「が……あ……」
 絶え絶えの声が酒天の内から響いた。飛車丸だ。
(手出しはさせぬ)
 強い意志の力。ねじ伏せようとする酒天と、阻止せんとする飛車丸の内面でせめぎあう力の拮抗を示すかのように、その手が小刻みに震えた。
(断じてならぬ!)
 飛車丸が叫んだ。
 かくりと糸が切れるように、体がその場に倒れ伏す。
「飛車丸」
 伽羅がその名を呼んだ。倒れた飛車丸は、ぴくりとも動かない。角は失せ、深い傷が穿たれていた。伽羅が手を伸ばす。と、辺りに散った牢の破片が振動しているのに気づいた。
「あ……」
 飛車丸に触れる間もなく、それが宙に舞う。きらきらと輝く光を纏った岩――かつては竜の体だったというそれ――は、再び元の形になろうとしていた。一つ、二つと重なって、柱に、牢に。
 伽羅が伸ばしていた手を閉じる。その頃にはもう、伽羅と飛車丸の間に牢が出来ていた。
 竜の亡骸を用いた牢は、鬼の力を以ってしても破れない。それ故に、ここに連れて来たのだ。飛車丸が長く鬼と向かえるよう。そしてその様を見守れるように。
 彼が鬼に呑まれれば、その時は。
 屠るのは自分の役目だと伽羅は覚悟した。再び目を覚まし、叫び、岩に身を打ち付ける飛車丸の姿を見ては涙を浮かべる。
 彼を自分の元へ連れてくるべきではなかったのかもしれない。
 それは彼女が初めて抱いた後悔だった。


 欠けた月が満ち、やがてまた欠ける。
 辰は焦りを隠そうともせずに、その様を見ていた。否、見たかったのは月などではない。
「手出しは無用です」
 伽羅はそう告げ、飛車丸と共に竜の洞穴へと入った。太古に主に仕えた竜の亡骸だと伝えられている、竜宮の洞穴だ。岩よりも堅い竜の体、そこが牢になっている。
 万一、と伽羅は言った。
 飛車丸がその体を乗っ取られ、自分がしくじるようなことがあれば――
 洞穴ごと封じて欲しいと伽羅は言ったのだ。
 そんなこと出来ませんと辰は抗議した。ならば俺がと言う辰に、伽羅は困ったような笑みを浮かべて、首を横に振っただけだった。
「皆には結界を残してきました。けれど、もしも」
 集落のことを案じているのだと、辰には容易に知れた。俯く伽羅に、「大丈夫です、俺がいます」とは随分気安く請け負ったものだ。
 じりじりと湧き上がるような焦燥感を感じながら、辰は洞穴の傍の岩に座っていた。突然姿を現した跡取りに竜宮は色めき立ったが、「五月蝿い」の一言で片付けた。父の説教も母の涙も目に入らぬ。辰はただ一点を見つめていた。
 飛車丸がいる洞穴、その入り口を。切立った石柱は、竜の口を連想させた。
 鬼をその身に封じたと聞いた。馬鹿なことをと罵る、そんな言葉さえ出てこなかった。
 飛車丸らしい、となぜかひどく納得した。あれはそういう男だと、辰は知っていたのだ。
 特殊な力を持たぬ人間が鬼を封じる。その所業を笑う者もいた。助けを求めておきながら、得物が棍一つだと知ると、そんなもので勝てるかと罵る者もいた。飛車丸は意に介さなかったが、辰は激昂したものだ。
「ならばお前達が行け! その棍だけ持って、鬼の前へ行くがいい! こいつを笑うのはそれからだ!」
 あの時飛車丸はひどく驚いていたけれど――本来お前が怒るべきだと辰が言うと、とまどったような顔をした。
 あれは阿呆だ。
 ひどい阿呆だ。
 辰が唇を噛んだ時、洞穴の奥から歩いてくる人影があった。傍らの岩に座っていた辰がその姿を認め、飛び降りる。やがて、着物の裾が月明かりに見えた。小さな花と鞠をあしらった紋様に見覚えがある。伽羅だ。
 辰が息を呑む。
 伽羅は、静かに辰に歩み寄った。
 疲労が滲んだその顔からは、結果の是非を伺えない。
 辰が口を開きかけた瞬間だった。
 洞穴の奥から、もう一人、歩み出る気配がある。
 伽羅は静かに目を閉じた。辰の顔が強張る。
 洞穴の中から、ぎこちなく歩む、飛車丸の姿があった。
 その姿を認めた辰が、絶句する。辰に気づいた飛車丸は、疲れきった顔ではにかんだ。
「……辰」
「この野郎ー!」
 歓喜の声を滲ませた辰が、飛車丸の体を抱く。ふと、飛車丸は違和感に気づいた。辰の周りを飛ぶ、小さな竜。その姿がはっきりと見えた。
 光り輝くような鱗。流美な曲線を描く髭。透ける様な体は、けれど明確に形作り、竜の姿をなしている。
「これが、竜……」
 飛車丸の呟きに、辰は身を離した。
「見えるのか」
「ああ」
 以前はおぼろげだったその姿が、明瞭に認識できる。飛車丸の目線が確実に竜を追っているのを見て、辰はそれを知った。
「なら、見てみろ」
 辰が指差す、その先に、竜宮の本殿があった。荘厳にも思える建物、しかし見るべきはそこではない。屋根に輪を描いて鎮座する竜の姿があった。飛車丸が知る限りのどの山よりも大きい。紫の鱗が陽光に照らされ、輝いた。
「あれは……」
 飛車丸が息を呑む。
「紫龍。竜宮の本殿を護る竜であり、全ての竜の始祖だと言われている。まあ、けど、あれだな」
 辰は頭を掻いた。
「どうやらうちの一代目に惚れたらしい。で、代々の跡継ぎを見ては惚れ直す、と」
 辰の言葉を聞いた紫龍が吼えた。低く、唸るように。辰が慌てて耳を押さえる。
「わかった、わかった。冗談だ」
 全く敵わんと辰は呻いた。
「母親より怖い存在がいるとは思わなかった」
 曰く、どこへ逃れても紫龍の視線を感じるのだとか。
「親……」
 ちらりと飛車丸が伽羅を見やる。少し笑んだ伽羅は、人差し指を立てて唇に当てた。



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