鬼神法師 酒天!

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其ノ拾 「罪なる法師、裁きの声を聞く」


「久遠……」
 伽羅が呟いた。
 飛車丸が顔を上げる。伽羅の横顔、そこにただならぬ気配を感じたのだ。
 父は鬼――伽羅がそう言っていたのを思い出す。
「久しいな」
 久遠は喉を転がすように笑った。
「娘」
 ぎろりと睨むような視線の先に伽羅がいたところで、他の誰もそれが真実娘のことだとは思わなかったらしい。
 辰と飛車丸が伽羅を庇うように、久遠との間に立ちはだかる。子供達が不安げに伽羅の衣を掴んだ。伽羅の周りを囲む人々を前に、久遠は笑みを浮かべた。
(久遠……!)
 ざわりと、飛車丸の体の内が疼いた。
「酒天……か?」
 戸惑う間にも練り上げられる、これは、怒気だ。
 震えるような怒気が、飛車丸の内で湧き上がった。
「酒……!」
 押さえ切れない。
 飛車丸が思った瞬間、その額が割れた。瞬く間に生え上がる、それは角だ。
「久遠、てめえええ!」
 吼え猛る酒天を、久遠が見下げた。
 法師の姿形をした鬼を、しげしげと眺める。
「おお」
 わざとらしく扇で口元を覆い、そのくせ隠せぬほどに侮蔑の笑みを浮かべた。
「誰かと思えば一つ角。かような姿であろうとは」
「てめぇ!」
 酒天が吼えた。
「人の名語って何してやがった!」
 瞬間、酒天の内にいる飛車丸に、酒天の記憶が流れ込んだ。方々の山で気ままに生きていたこと。やがて、都で悪行を重ねる鬼が己の名を語っていると知ったこと。訪れた先で飛車丸と出会ったこと……
(酒天……)
 濡れ衣なのかと思いかけた矢先、酒天は叫んだ。
「俺は殴りたけりゃ殴る! やりたきゃ犯す! てめぇみたいにまどろっこしい真似はし
ねぇんだよ!」
 飛車丸が静かにこめかみを押さえる。これはこれで始末の必要な鬼だったのだと己を納得させた。
 とはいえ、当面の利害は一致しているようだ。
(あの鬼を倒せるか)
 己の内から湧き上がる声に、酒天は舌なめずりした。
「てめぇが余計な邪魔をしなけりゃな」
 酒天がそう言った矢先だった。久遠がちらりと伽羅を見やった。 
「人になると言うたな」
 そう叫び、己の前で角を断ち切った娘。
「忘れておろう」
 久遠の瞳が細められた。
「その体に巡る血、誰のものかを」
 久遠の言葉が終らぬうちに、伽羅の体がびくりと震えた。
 気づいたのは、飛車丸だけだった。
 母は人だと言った。父は鬼だと。
 まさか、あの鬼が――?
 飛車丸が疑問に思う間もなく、伽羅の声が心に響いた。
『殺して、ください』
 飛車丸の目が瞬く。
 確かに、伽羅の声だった。他の者に聞こえている様子はない。竜で白鬼を祓っている辰にも、だ。
 信じられぬ面持ちで伽羅を見やる。一度苦しげに目を閉じた伽羅が、飛車丸を見て微笑んだ。
『早く。私が皆に危害を加えぬうちに』
 衣を押さえる腕が震えている。鬼の血が騒ぐようだった。
「俺様がやってやるぜ。感謝するんだな」
 酒天が言った。指を鳴らした瞬間、強烈な支配が酒天を襲う。
「ぐ……?」
 がくりと酒天の首が落ちる。やがて頭をもたげ、現れたのは飛車丸の人格だった。ぜえぜえと息を吐きながら、それでも伽羅に抗議する。
「し、かし……」
『問答している暇はありません』
 伽羅の声には確かに余裕がなかった。
 がたがたと伽羅の身体が震える。
「く……」
 その目が見開かれる。
 血が騒ぐ。
 押さえ切れない。
 伽羅の口が大きく裂けた。額から角が突き出る。凄絶な笑みを浮かべ、無防備に背をさらす子供たちへと手が伸びる。
『早く!』
 伽羅の悲鳴が響く。
 瞬間、飛車丸は地を蹴っていた。
 あらん限りの力で、伽羅の胸に朱棍を突き立てる。
 人ならば、その一突きで気を失っただろう。
 けれど、そこに棍が食い込むのは。
『まじないをかけておきました』
 鬼を退けるように。その存在を駆逐するように。
 おにを。
 伽羅が己の胸に食い込む朱棍を凝視する。脳裏に父の姿が過ぎった。
「お前は人だ」
 繰り返し、そう言っていた父。
 父様、父様、わたしは。
 わたしは――
 伽羅の瞳が久遠を写す。束の間の交錯、久遠の瞳が愉快そうに細められた。
 少し鈍い感触だった。抵抗がなくなるまで押し切ってしまうと、伽羅の背から朱棍が突き出た。辺りに血が霧散する。
 伽羅の体が揺らぐ。久遠が笑みを漏らすと、その額から角が消えていった。
「うわああ、伽羅様!」
 子供たちが悲鳴をあげる。伽羅は遠くなりかけた意識の中でそれを聞いた。己に刺さった朱棍の先に、飛車丸の顔があった。驚愕に瞳は見開かれ、腕が震えている。
 目を細めた伽羅が手を伸ばす。指先が飛車丸の頬に触れた。
 飛車丸の名を呼ぼうと開いた口から、血が溢れ出す。


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