「伽羅様――!」
辰の絶叫が木霊する。咄嗟に飛車丸は伽羅の胸から朱棍を引き抜いた。伽羅の血が朱棍に纏わりつく。紅さを増した朱棍からは、禍々しささえ感じられた。
支えを失った伽羅の体が転がった。
「あ……あ」
放心した飛車丸がその場に立ち尽くす。
輪を描くように広がった伽羅の髪、朱に染まった伽羅の体。
閉じた目は、開こうともしない。
血の滴る己の朱棍。
なぜ、このような……
「飛車丸!」
辰の声にびくりと飛車丸の体が震えた。怯えきった瞳が辰を写す。その姿を捉えきる前に、飛車丸は踵を返した。駆け出した先は、山門だ。
壊してしまった。大切なものを、なにもかも。
がたがたと歯が震える。
込み上げる恐怖が、飛車丸の背を押した。一刻も早く此の場から逃げ去りたかった。
蔑まれることには慣れている。石を持って追われることにも。
けれど、この場の誰にもそうして欲しくはなかった。きっと己は耐えられないだろう。
「待て、飛車丸!」
一瞬飛車丸を追いかけた辰は、すぐに伽羅の元へと駆け寄った。
「伽羅様!」
抱き上げたそれは、すでに死体だった。
「伽……」
くったりと力なく、そこに在る。その無力感と、溢れ出るような血が辰の激情に火をつけた。
「飛車丸、飛車丸、貴様ぁあ!」
あらん限りの声で辰が叫ぶ。飛車丸を屠る竜を呼ぶために印を繰る。繰り出そうとした矢先、
「うわああ!」
「きゃああ」
村人の悲鳴が、辰の理性を押し止めた。伽羅の結界が解けたことで、鬼達が集落に侵入していた。迫り繰る鬼に、皆が悲鳴をあげ逃げ惑っている。
「くっ」
歯噛みした辰が、印を鬼に向ける。巨大な竜が風を裂き、鬼を食らった。続き様に辰が印を繰る。土が渦巻き、土の竜が姿を現した。
「辰様! 鬼が、伽羅様が。ああ、もう駄目です……!」
「あれは、あいつはやはり鬼だったのか。おのれ、おのれ」
「伽羅様、伽羅様」
怒号と悲鳴が響き渡る。それは辰の心情にも似ていた。
「皆取り乱すな!」
辰が声をあげる。
駆け寄る女房に伽羅の亡骸を託すと、辰は立ち上がった。
「女子供は本殿に戻れ! 男衆は武器を!」
泣きたい、叫びたい。
込み上げる衝動を辰はこらえた。
『私に何かあった時は、皆を頼みますね』
伽羅の亡骸を横目で見、唇を噛み締める。辰は声を張り上げて叫んだ。
「案ずるな、俺がいる! 竜宮が長子、この辰が皆を守る!」
辰に呼応するかのように竜が吼える。轟くようなその声に、周囲の山の木々が震えた。
辰を顧みることなく、飛車丸は駆けた。山門を下り、なお止まることなく駆けて行く。
「ああ、ああ」
無意識に漏れる声は、小さな悲鳴のようだった。
足が駆け続ける。伽羅の元から、辰の元から遠ざかる。
「ああ」
瞳に涙が溢れた。止まってはならぬ。戻ってもならぬ。
「ああ……!」
己が貫いた伽羅の感触がまだ手に残っている。
私は、本当の鬼になってしまった……!
飛車丸は駆けた。ひたすらに逃げた。
息が切れ、足が走ることを拒否しても、その意識が途絶えるまで駆け続けた。
飛車丸が倒れるように眠ってから、身を起こしたのは酒天だった。
「やっと意識をなくしやがったな、クソ坊主が。三日も走り続けるなんて何考えてんだ」
疲労に倒れた飛車丸の身体がむくりと起き上がった。すでに夜の帳は降りている。満点の星の中で、これまでの憂さをどうはらしてくれようかと、酒天が舌なめずりしたその時。
「……ん?」
酒天がふと気づくと、飛車丸の棍が宙に浮いて立っていた。伽羅の鮮血で真っ赤に染まったそれは、輝くような光を纏っていた。
酒天が忌々しそうに目を細める。
「憑いてんのか」
声に答えるように幽体となった伽羅が姿を現した。現世の姿が透けて見える。
「行かせませぬ」
酒天の行く手を遮るかのように、伽羅が両手を広げる。酒天が面倒そうに頭を掻いた。
「化けてまでご苦労なことだな」
はあ、と溜息をつく。途端に飛車丸の身体に蓄積された疲労が押し寄せた。混乱の極みにいた飛車丸の心情も、酒天にこれまでにない徒労感をもたらしていた。
不機嫌な顔をしてどかりと座り込む。それから大仰に息を吐いた。全身の筋肉が疲弊しきっている。
「今日はおめーらに譲ってやらぁ」
言うが早いか酒天は目を閉じた。瞬く間に眠りに落ちる。
伽羅は、その様子を淡々と見ていた。酒天が眠りに落ちたのを見て、そっと飛車丸に近づく。
「守り人よ」
伽羅は憐れみをこめるような目で飛車丸に告げた。腫れ上がった瞼を、汗の滲む額を、そっと撫でる。
「私は、貴方の傍に」
囁きはかすかに、飛車丸の耳に届いた。それだけだった。
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