鬼神法師 酒天!

  表紙



 行く宛もなければ、戻る場所もない。
 目を覚ました飛車丸は、途方に暮れた。
 皆に訳を話せば良いのだろう、それはわかる。けれど、戻り、罵られるのが怖かった。
 ――怖かった。
 鬼と対峙する時の恐怖とはまた違う、初めての感覚だった。心が抉られるようだ。
『飛車丸、飛車丸、貴様ぁあ!』
 辰の絶叫がまだ耳に残っている。
 目を閉じれば、伽羅の最後の姿が鮮やかに浮かんだ。知らず、朱棍を握り締める。伽羅の血を吸った朱棍は、紅さを増していた。
 飛車丸が杉の木にもたれたまま座り込む。
 身じろぎもせず、時に委ねる。何も考えたくはなかった。
(死ぬなよ)
 どのぐらい時が過ぎた頃だろう。己の内でぽつりと声がした。
「……酒天?」
 乾ききった喉で、それでも答える。すでに昇った陽は高く、飛車丸は初めて眩しさに気づいた。
「私を案じ……」
(誰がだ! 手前の生き死になんざ知ったことか! 死ぬなら俺様を解放してからにしろってことだ!)
「解放」
 飛車丸は呟いた。
「それは出来ぬな」
 自分でも驚くほど早く、飛車丸は即答した。自身の答えに、飛車丸の目が瞬く。やがて、口の端から笑みが零れた。
「……全く、お主は」
 どうしようもないなと苦笑する。
「迷う間もくれぬとは」
 呟くように立ち上がる、その時だった。
 山の合間から、悲鳴が聞こえた。
「ひいっ、鬼じゃああ!」
 瞬間、飛車丸の身体は動いた。
 声の方へと朱棍を手に走り出す。いくつもの小枝が体に当たる。それを顧みることなく、飛車丸は駆けた。
 間もなく、腰を抜かしてへたりこむ老婆が視界に入った。山菜を取りに山に入ったのだろう、辺りに摘んだばかりの菜が散らばっている。その眼前に、手を伸ばす鬼の姿があった。
 振るわれた朱棍が鬼の手を弾く。
 驚く老婆の前に、襤褸切れのような山伏衣装を着た男の姿が飛び込んだ。唸る鬼に怯むこともなく、朱棍を構える。
「鬼よ」
 飛車丸の唇がわなないた。震える心のままに噛み締めると、かすかに血が滲んだ。
 立ち向かう術は、辰が教えてくれた。
 向き合う心は、伽羅が教えてくれた。
 己が人だと、教えてくれた。

 なれば私は人で在ろう。鬼を宿したとて揺らぐことなく、人で在ろう――

 飛車丸の手に力が篭る。静かに鬼を睨み据え、そして告げた。
「私は流浪の法師。人を喰うのはまかりならぬ。どうしてもと言うのなら、まず私を倒してみせよ」



◆◆◆



 時の流るること数百年余。
 朱棍の法師は竜宮の地へと足を踏み入れた。竜宮の本殿の屋根に纏わりつく巨大な龍――紫龍――は、その気配に気づいた。首を向けたその先に、法師一行の姿があった。
 斎の気配に喜び、沸いて出るような竜の数に、山吹が閉口する。
「見事、と言うべきなのか」
 これでは山にいる蛇とさして扱いも変わらぬと毒づく。空蝉が「そういうものなのですか」と竜を眺めた。竜達は、空蝉の内にある鬼の気配に怯むどころか、気にする素振りもない。子供の竜に至っては、悪戯に突いてくる始末だ。
「まあ、竜の故郷って言われてるからなあ。‘降る里’から来てるらしいが」
 斎が竜の喉を擽りながら答えた。
「先刻寝床をくれた、あの麓の村は後に出来たと聞いている。口伝を遺した先祖が開拓させたらしいな。竜じゃなく竜宮の人間を崇めてるのはなぜなんだか」
 俺達が偉いわけじゃないんだが、と斎が頭を掻く。
「辰が」
 皆をここに連れてきたのかと、飛車丸は呟いた。過ぎた村を名残惜しそうに振り返ろうとし、思い止まった。逃げた己に、その資格はないだろう。
 手にした朱棍が重くなった気がした。その時だった。
「紫龍!」
 斎が叫んだ。竜宮の本殿、その屋根に鎮座していた巨大な龍が飛び立っている。風を纏い、数多の鱗を散らしながら、牙を剥き向かう先は――飛車丸だ。
「構わぬ」
 飛車丸は告げた。
 朱棍を構えることなく、ただ目を細める。
 ――辰が私を許すなと言ったのだろう
 ――あれは律儀に数百年も前の約束を覚えているのだ
 己の中に響く酒天の罵倒には耳を貸さずに、飛車丸は静かに目を閉じた。
 竜の鋭い牙が、飛車丸に向かう。
「紫龍!」
 斎が叫ぶ。強引に印を繰ろうとしたその瞬間、飛車丸に触れる寸前で、その牙は動きを止めた。
「……?」
 飛車丸が目を開ける。紫龍は飛車丸の前で口を閉じると、斎に向けて唸った。
「……え?」
 斎が信じられないという顔をして、飛車丸を見る。
「紫龍は、なんと?」
「口伝に続きがある」
 斎が紫龍を見ながら告げた。うちの祖先だけにいい加減だとぼやきながら。
「曰く、朱棍の法師が、お前の牙に逃げるようなら殺せ。向かって行っても対峙するなら……」
 紫龍の言葉を斎が継いだ。
「信じる」
 飛車丸の目が瞬いた。
「お前なりの信条があったのだろうと、信じる、と」
 辰、辰。
 飛車丸の中で思い出が渦巻いた。
『飛車丸、飛車丸、貴様ぁあ!』
 最後に聞いた呪詛にも似た言葉を思い出す。恨んでいるだろうと思った。憎んでいるだろうと。けれど。
 けれど。
「……大丈夫か?」
 飛車丸の変化を見た斎が声をかけた。
「ああ」
 飛車丸は頷いた。
「ああ……すまない」
 その頬に一筋、もうとうに枯れ果てたと思っていた涙が流れた。



【其ノ拾・終】

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