鬼神法師 酒天!

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其ノ拾壱 「降る降る郷、其処におわすは竜の子ら【前】」


 降る降る郷。
 流るる星の如く、下るは竜。
 降る降る郷。
 神代より続く、その祠に、人に還れ。



 古来より続くと言われる、竜宮を祀る唄を、斎はそらんじることが出来る。子守唄代わりに聞いていたせいだ。そこにはおぼろげに、竜宮の始まりが詠われていた。
 竜宮の人間には竜の血が混じると言われている。その血が濃く、突出した者は、人にあるまじき姿で生まれることも多々あった。ある者は牙を持ち、ある者は鱗を伴い。
「俺は毛色だけで済んだ分、ありがたいのかもな」
 下手すりゃあの牢に一生繋がれる、とぼやいた斎は、己の髪を撫でた。淡い水色をした髪は、水竜の血が濃く出た証とされている。それが真実か否か、斎にはわからない。けれど、呼ばずとも寄る竜が、それを裏付けているようにも思えた。
「それで、そこはそんなに珍しいのか」
 竜の亡骸、その躯を使って作られた牢を眺める飛車丸に声をかける。着いた途端に、案内を望んだのだ。
 飛車丸は、感慨深げに牢に触れた。
「懐かしい」
「懐かしい?」
 奇異な感想に、斎の眉が寄る。
「この身にこの鬼を宿した折、ここに世話になった」
 飛車丸が言うと、斎の目が見開いた。
「ここに?」
「いかにも」
「へえ……」
 そうなのかと感心しながら、牢に入る。長年傍で暮らした割に、立ち入った覚えはない。白く滑らかな竜の死骸。その気配に、どことなく不気味さを感じて、遠巻きに見るだけだった。
 斎が壁に触れると、かつての竜の体は冷たく、蝋のような触り心地だった。
「行かぬのか」
 主語なく言われた問いに、斎の顔に苦味が走った。
「どこへ」
「山吹殿、あるいはあの娘御の」
「弟のところか、長老の爺のとこって選択もあるな。ああ、もう」
 呟いた斎が頭を抱える。
「これだから帰ってきたくなかったんだ」
 今ならこの口が閉じても構わないと、溜息をつきながら、牢の入り口である竜の口を見上げた。


 話は数刻前に遡る。
 飛車丸の前で口を閉じた紫の竜は、その役目を終えると、再び本殿の屋根へと巻きついた。紫暗の鱗が光沢を放ちながら、いくつか散る。桜の散り様にも似た様子に、山吹は目を細めた。
「随分すっきりした顔をしてるな」
 満足げに目を閉じる紫龍を見た斎が呟く。
 俺はこれからが気が重いと呟いた矢先、入り口に斎の姿を認めた女房達が飛び出してきた。
「斎様!」
 観念した斎が片手を挙げる。
「ただいま」
「お戻りになられましたか! 一同待ち侘びておりました」
「お疲れでしょう。お部屋にご案内いたします。お連れ様もご一緒に。ささ」
 わらわらと群がるように沸いてくる女房たちに、斎は頭を掻いた。行李を受け取ろうとする女房を、山吹がやんわりと断る。飛車丸の朱棍を見た女房は、おそるおそる斎に尋ねた。
「斎様……こちらは、もしや」
「俺の客だ」
 この先も際限がないだろうと、斎が嘆息する。
「じゃ、ま、とりあえず行くか。爺にも挨拶をせねばな」
 呟いた斎が歩を進めた時だった。
「斎様!」
 傍らの木立から飛び出した女が、斎に抱きついた。一つに纏められた黒髪は長く、紫陽花をあしらった法衣からは、ほのかな香の匂いした。白くしなやかな腕が斎の首に絡められる。
「た……環」
 斎が呻くようにその名を口にした。かすかにその頬が引きつっている。
 環と呼ばれた女は、きっと顔を上げた。まだ十五・六の少女だ。大きな黒い瞳が斎を映す。
「斎様、どちらへおいでだったのです! 環のことをお忘れですか!」
「いいや、そんなことは」
 宥めるように斎が言う。ちら、と横目で山吹を見てから、呟いた。
「大切な許婚だ。忘れはせんが」
「気にもせんと」
 後を引き継ぐように言う山吹の気配に、斎の顔が強張った。
「私達は行こう。お二人でゆるりと過ごされよ」
 山吹が斎に背を向ける。女房に案内されるままに、歩を進めた。飛車丸も続く。ぼうっとその場に立っている空蝉に気づくと、山吹は空蝉の着物の裾を「貴様も来い」と引いた。引かれるままに空蝉が歩き出す。
「ありゃ……」
 斎がその背を見送る。
「斎様、今の方は」
「山吹。旅の途中で出会った人形師だ。ちっこいのは空蝉な。それから、朱棍の法師」
「竜宮の敵ですわね」
 環が拳を握る。いいや違う、と斎はその手を押さえた。
「これから皆にも話をせねばな。全く、厄介な口伝を」
 はあ、と懊悩深く溜息を漏らした。
「環はお邪魔でしたか」
「いや、まあ、なんというか」
 ゆっくりと斎が息を吐く。顔を上げると、環を真っ直ぐに見据えて、言った。
「そんなことはない。久しいな、環。辰信は息災か」
「辰信様はお変わりなく。先日も滝行をこなしておりました」
「あいつは真面目だなぁ」
 斎が呆れたように言った。血が繋がっているとは思えぬほどに勤勉な弟の顔を思い出す。
「辰信様は努力なさってます。笑われるとは、お人が悪い」
 むきになる環を見て、斎が笑う。
「環は辰信が好きだな」
「そっ、そのようなことは……っ」
 斎の言葉に環が赤面した。きゅっと、斎の衣を掴む。そして呟いた。
「……環の許婚は、斎様です」
「生まれる前から決まってた、か」
 呟いた斎が環の肩に手を置いた。静かに、身を離す。
「斎様」
「なあ、環」
 何気ない歩調で自分から距離を取る許婚に、環は追いすがった。
 斎が口を開く。その雰囲気がいつもと違う気がした。
「俺は――」
 環の足が止まる。
 不安に胸が痛んだ。
 環の気配に気づいた斎が振り返る。先ほどの張り詰めた雰囲気を吹き飛ばすような、普段の快活な笑み。斎は本心から告げた。
「もうすぐ祭りだな! 楽しみだ!」
 浮かれたような足取りで歩き出す。
「斎様……」
 本当は違うことを言おうとしたのでは。
 環の不安を裏付けるように、彼女から離れた斎は顔の笑みを消していた。



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